第六十二話
契約が結ばれてからというもの、月麗――ユエリーの振る舞いは、周囲の予想をはるかに超えていた。
それは忠誠というより、もはや“過剰な献身”と呼ぶべきものだった。
朝になれば誰よりも早く起き、庵の中を見回り、わずかな埃すら見逃さぬように整える。水は新しく汲まれ、火は最適な温度で保たれ、ミアが目を覚ます頃にはすでに一日の準備が整っている。
そして、当の本人――ミアが起きると同時に、その過剰さはさらに加速する。
「主、こちらへ」
柔らかな声音で呼び寄せられ、気がつけば背後に回られている。
細く長い指が、真珠色の髪に触れた。
櫛を通す手つきは驚くほど丁寧で、絡まりやすい柔らかな髪を、傷つけぬよう、一本一本ほどくように整えていく。
「ユエリー、そんなに頑張らなくていい」
ミアは、少し困ったように笑った。
「料理も掃除も、ひと通りできるし……お風呂の世話もね。自分でやりたいんだ」
言葉はやんわりとしているが、その意思ははっきりしている。
“自分のことは自分でやる”。
それは彼女の中で、譲れない線だった。
だが――
「駄目だ」
即答だった。
柔らかな声音のまま、しかし一切の揺らぎもない。
「きちんと洗い、梳り、手入れをせねば、主の髪はすぐに絡まる」
さらりと言いながらも、その手は止まらない。
むしろ、より丁寧に、より念入りに整えていく。
「これは主の美を保つための務めである」
その言葉には、どこか誇りのようなものが滲んでいた。
ただの世話ではない。
役割として、義務として、そして――
自らが選び取った“在り方”として。
ミアは、軽く肩をすくめる。
「……なんだか、過保護だね」
くすりと笑うが、完全に拒む様子でもない。
実際、ユエリーの手入れは心地よく、髪は見違えるほど整うのだから、強く止める理由もないのだ。
その様子を、少し離れた場所からナギが呆れ顔で見ていた。
「……お前、それ完全にやりすぎだろ」
ぼそりと呟く。
だがユエリーは一瞥すらくれない。
ただ、淡々と髪を整え続ける。
その横顔は、どこまでも真剣だった。
――譲るつもりはない。
そんな無言の意思がはっきりと見える。
その理由を、ナギはなんとなく察していた。
龍界でのやり取り。
楼蘭の言葉。
“幼女趣味”だの、“ちんちくりん”だの。
あれを真正面から受け止めた結果が、これだ。
つまり――
「……意地張ってんのか」
呆れ半分、納得半分で呟く。
ユエリーの手が、わずかに止まった。
ほんの一瞬だけ。
だがすぐに、何事もなかったかのように動き出す。
「主は、常に美しくあるべきだ」
静かに言い切る。
その声音には、わずかな棘があった。
誰に向けたものかは、明白だ。
ミアはその様子に気づき、ふっと小さく笑った。
「……もしかして、拗ねてる?」
軽く振り返りながら問いかける。
すると――ユエリーは一瞬、言葉を詰まらせた。
ほんの僅かに。本当に僅かに。
「……そのようなことはない」
視線を逸らしながら答える。
だが、その耳はわずかに赤い。
分かりやすいほどに。
ミアは、くすくすと笑う。
秋の柔らかな光の中で、そのやり取りはどこか穏やかで。
けれど確かに、関係の変化を感じさせるものだった。
主と従。
だがそれだけではない距離。
ユエリーは今日もまた、完璧を目指すようにミアの髪を整え続ける。
それが自分の役割であり――
何より、自分がそうしたいからだった。




