第五十九話
秋の澄んだ空気を引き裂くように、二つの巨大な影が天より降りてきた。
風が渦を巻き、庵の屋根を撫で、木々の葉をざわめかせる。空は高く、どこまでも青く澄んでいるというのに、その一角だけが異質な重みを帯びていた。
――龍。
それも、ただの龍ではない。
一頭は、白銀の鱗を陽光に煌めかせ、左右で異なる色の瞳を持つ、あまりにも美しい龍。神話の中から抜け出してきたかのような神聖さを纏う存在――月麗。
もう一頭は、対照的に光を吸い込むような黒曜の鱗を持ち、金の瞳を鋭く光らせる龍――楼蘭。その存在は静かでありながら、底知れぬ圧を孕んでいる。
二頭はゆっくりと地へと降り立ち、その巨大な躯が光に溶けるようにして、人の姿へと変じた。
その瞬間だった。
「ミア!」
抑えきれない衝動が、その名を呼ばせた。
次の刹那には、月麗はすでに彼女の前にいた。
躊躇など一切ない。
両腕でその小さな身体を抱き上げ、引き寄せる。
「……ああ……」
胸いっぱいに吸い込む。
彼女の匂いを。
甘く、柔らかく、どこか懐かしいその香りを。
千年という時間を越えてなお、変わらないもの。
それを確かめるように、何度も、何度も。
「……この香りだ」
低く、震える声で呟く。
「間違いない……そなたは、私の番だ」
ミアの小さな体が、その腕の中でわずかに軋むほどに、力がこもる。
だがそれは、壊すためではない。
手放さぬための力だった。
やがて、ゆっくりと彼女を地に下ろす。
その動作すら、ひどく名残惜しげに。
そして――月麗は、片膝をついた。
秋の落ち葉が舞う地面に、ためらいもなく。
王であった者が、自らその尊厳を差し出すように。
「我が名は月麗」
静かに、だが確かに響く声で名乗る。
その声は、誓約の言葉として空間に刻まれていく。
「龍界に生まれし者として、理を知り、血を知り、番を知る者として――」
一語一語が重い。
軽い言葉ではない。
その全てが、存在そのものから発せられている。
ミアの手を取る。
小さな左手。
そこに刻まれた紋様――かつて自らが与えた鱗の印。
それを、確かめるように指でなぞる。
「この身に宿るすべてをもって、誓おう」
顔を寄せる。
その紋へと、ゆっくりと唇を落とす。
触れた瞬間。
ぞわり、と空気が震えた。
それはただの口付けではない。
契約の起点。
魂と力を繋ぐ、儀式の始まり。
さらに――わずかに歯を立てる。
皮膚が裂け、赤い血が滲む。
それを、舐め取る。
丁寧に、逃さぬように。
その瞬間だった。
熱が走る。
ミアの体の内側を、奔流のような力が駆け巡った。
それは暴力的なものではない。
むしろ、満ちるような。
満たされていくような感覚。
月麗の神力。
龍としての根源の力が、契約の証として流れ込んでくる。
「我が力は、すべて主のもの」
月麗は顔を上げる。
その瞳は、揺るがない。
かつての王としてではなく。
ただ一人の存在として、選び、捧げる者の眼。
「我が命も、我が意思も、我が未来も」
すべてを言い切る。
逃げ道など、一切残さずに。
「そなたに捧げる」
風が止まる。
世界が、その言葉を受け止めるように静まる。
楼蘭はその様子を見て、深く息を吐いた。
止めることなど、最初からできないと分かっていた顔で。
ナギは言葉を失い、老師はただ目を細める。
そして――月麗は、ゆっくりと頭を垂れた。
「契約は成った」
静かに告げる。
それは宣言であり、確定であり、覆らぬ事実。
「我が主よ」
再び顔を上げる。
その声音は、どこまでも恭しく。
だが、その奥には消えぬ熱がある。
「私に、何を望む」
すべてを差し出した者の問い。
その答えを持つのは――ミアただ一人だった。




