第五十八話
秋の気配が、静かに庵の周囲を染めはじめていた。
夏の濃さはすでに抜け、空気は澄み、風にはわずかな冷たさが混じる。木々の葉はまだ色づききってはいないが、その兆しは確かにあった。
そんなある日。一通の書簡が届いた。
それは本来の“本書”ではない。
――先触れ。
訪問を予告するためだけの、簡潔な知らせ。
だが、その内容はあまりにも明確だった。
月麗、来訪。
「……はや」
ミアは、思わず声に出した。
筆跡を見間違えるはずもない。
そして、その内容の意味も。
あの状態から。
あれほど衰弱し、動くことすらままならなかった龍が――たった半年で、ここまで回復したというのか。
「……ちょっと、予想外なんだけど」
ぽつりと呟く。
回復すること自体は疑っていなかった。
むしろ、あの存在であれば時間の問題だと分かっていた。
だが、この速さは――想定を明らかに上回っている。
ナギが後ろから覗き込み、口笛を吹いた。
「マジかよ。ヒョロヒョロ龍、もう動けんのか」
「ヒョロヒョロ言わないであげて」
苦笑しながら返すが、内心は同じだった。驚き。
そして、わずかな――緊張。
理由は、考えるまでもない。
「……来る理由も、分かりきってるしね」
小さく、ため息をつく。
従属契約。
あの夜、半ば冗談めかして、しかし確かに提示した“選択肢”。
それを――本気で取りに来た。
龍界の前王が。あの月麗が。
「……それでいいのかな、本当に」
思わず、そんな言葉が漏れる。
王という地位。
世界における立場。
それらをすべて投げ打って、たったひとつの関係に身を置こうとしている。
それは――
あまりにも極端で。あまりにも、龍らしい。
「心配してどうすんだよ、お前」
ナギが肩をすくめる。
「向こうが選んだんだろ」
「……そうなんだけどさ」
言葉はそうだ。理屈も分かる。
だが――ミアの中で、それは簡単に割り切れる話ではなかった。
あの涙。あの執着。
あの“愛している”という言葉。
それらを知っているからこそ。
軽く受け取ることができない。
「……まあ、来るなら来るでいいか」
やがて、ふっと息を抜く。
考えても仕方のないことは、考えない。
それがミアのやり方だった。
「どうせ、止めても来るでしょ」
少しだけ、楽しげに笑う。
その裏にあるものを隠すように。
老師は、少し離れた場所で腕を組みながらその様子を見ていた。
何も言わない。
ただ一度、ゆっくりと目を細める。
来るべきものが、来る。
それだけのことだ。
秋の風が、庵の周囲を通り抜ける。
静かな時間の中に、ひとつの“変化”が差し込もうとしていた。
それは決して穏やかなものではない。
だが――避けることも、できないものだった。




