第五十七話
回廊を抜け、自室へと戻ったあとも、月麗の思考は静かに揺れていた。
歩けるようになった身体とは裏腹に、胸の内にあるものは、そう簡単に整わない。
――恋とは、ままならぬものだ。
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
苦くもなく、甘くもなく。
ただ、事実として。
千年も前に、それは嫌というほど思い知らされた。
あの頃の彼女の隣には、すでに“完成された関係”があった。揺るぎなく、深く結びついた伴侶がいて、その間に流れる空気は、第三者が踏み込めるようなものではなかった。
どれほど想おうと。
どれほど手を伸ばそうと。
入り込む余地など、最初から存在していなかったのだ。
だからこそ。
「……いない、のか」
ぽつりと呟く。
今の彼女には、伴侶がいない。
その事実に、胸の奥がわずかに緩むのを、自覚する。
安堵だった。
あまりにも率直で、あまりにも身勝手な。
それでも否定しない。
龍は、そういう生き物だ。
番という概念がある以上、そこに理性や遠慮が入り込む余地はない。
「……小さな虫が、群がっているようだが」
脳裏に浮かぶのは、あの夜の光景。
銀の髪の少年。
そして、それ以外にも――気配だけは感じ取れる存在たち。
あの少女の周囲には、自然と何かが引き寄せられる。
光に集まる虫のように。だが。
「……関係ないな」
きっぱりと、切り捨てる。
あれらは所詮、その程度のものだ。
群がるだけで、核心には届かない。
触れたとしても、本質には至らない。
自分とは違う。
そう断じることに、迷いはなかった。
視線を落とし、左手首に触れる。
そこに刻まれた紋。
自分の鱗。
輪廻を越えてなお、彼女に残った証。
それが何を意味するのか――理解していないはずがない。
「……はるか先、か」
彼女が言っていた未来。
四王に順に嫁ぐという、あまりにも突飛で、そして現実的な選択。
だが、それは“今”ではない。
遥か先。
時の流れの中で、いくらでも形を変え得る未来。
「ならば――」
静かに目を閉じる。
「今は、私の時間だ」
誰に譲る必要もない。
誰かと争う必要すらない。
まだ何も決まっていない“今”という時間。
そこに、自分はいる。
ゆっくりと目を開く。
その瞳には、かつての王としての威厳とは違う――
もっと個人的で、もっと執着に近い光が宿っていた。
「……次に会う時は」
小さく呟く。
あの夜のように、ただ見ているだけでは終わらない。
手を伸ばし、触れ、確かめる。
その距離に、自分も立つ。
そう決めていた。
静かな部屋の中で、月麗の気配だけが、わずかに熱を帯びていく。
それはまだ小さい。
だが確実に――燃え始めていた。




