第五十六話
龍泉洞の奥、竜骨の間にほど近い回廊は、常に淡い光に満ちていた。壁面に埋め込まれた霊石が、呼吸するように明滅し、時間の流れすら曖昧にする。
その静謐の中を、月麗はゆっくりと歩いていた。
足取りは、もはや“病み上がり”のそれではない。
かつてのしなやかな中性的な容貌はそのままに、肉体は確実に変化していた。骨ばっていた細い指には、男の硬さが宿り、握れば確かな力が返ってくる。薄く削げていた身体には筋肉が付きはじめ、まだ完成には遠いながらも、芯のある強さを取り戻しつつあった。
呼吸も乱れない。
歩みも止まらない。
龍泉洞の内部であれば、もはや自由に動ける。
「……そろそろ、いい頃合いかな」
静かに呟く。
それは誰に聞かせるでもない、ただ自分自身への確認のような言葉だった。
己の手を見下ろし、ゆっくりと握る。
力が、戻ってきている。
完全ではない。
だが、十分に――動ける。
そのとき。
「まだまだに決まっているでしょう」
すかさず、横から声が差し込んだ。
振り返るまでもない。
そこにいるのは――楼蘭だ。
黒曜の髪を揺らし、腕を組んだまま、いかにも不機嫌そうにこちらを見ている。その瞳には、露骨な苛立ちと、それ以上に強い警戒が宿っていた。
「……あの娘は、災いの中心にある」
低く、言い切る。
「これからあなたがどんな危険な目に遭うとも限らない。許可は出せません」
言葉は冷静だが、その内側には明確な“拒絶”があった。
ただの忠言ではない。
止める意志だ。
だが――月麗は、わずかに口元を緩めた。
その反応すら、どこか余裕を帯びている。
「回復は順調である」
静かに返す。
言い聞かせるようでもあり、宣言するようでもある声音で。
「そなたは知らないから、そんなことが言えるのだ」
その一言に、わずかに含みがあった。
楼蘭の眉が、ぴくりと動く。
「……何を」
問い返そうとしたその言葉を、月麗は遮るように続けた。
「番は――龍にとって唯一無二の存在だ」
ゆっくりと。一言ずつ、確かめるように。
その瞳に、揺るぎないものが宿る。
「あれは、理屈ではない」
理で縛れるものではない。
王としての責務でも、血統の継承でもない。
もっと根源的な――存在そのものに刻まれたもの。
「たとえ一日でも、離れたくはない」
その言葉は、静かだった。
だが、重かった。
龍という種の本能と、千年の時を越えた執着とが、すべて込められている。
回廊に、わずかな沈黙が落ちる。
楼蘭は、しばらく何も言わなかった。
ただ、じっと月麗を見据えている。
その視線の奥で、様々な感情が交錯していた。
怒り。呆れ。そして――
どうしようもない、理解。
やがて、深く息を吐く。
「……厄介だな、本当に」
ぼそりと零す。
拒否したい。
止めたい。
だが、それが“無意味”であることも、理解している。
目の前にいるのは、かつて龍界を統べた王であり――
何より、“それ”を知ってしまった龍なのだから。
「行くなとは言わない」
しぶしぶ、といった声音で続ける。
「ただし」
視線が鋭くなる。
「無茶はしないでください。死なれたら、今度こそ洒落にならない」
それは命令ではなく――
ほとんど、願いに近かった。
月麗は、それを聞いて、ふっと笑う。
「心得ている」
短く答える。
だが、その瞳の奥には、すでに決意が宿っていた。
止められるものではない。
止まるつもりもない。
回復した力とともに――彼の時間は、再び動き出そうとしていた。




