第五十五話
筆を置いたあとも、しばらく月麗は文机の前から動かなかった。
灯りに照らされた紙面には、ミアの整った文字が静かに並んでいる。その一文字一文字を、何度もなぞるように目で追いながら、胸の奥にわき上がる感情を持て余していた。
「……友達、か」
小さく呟く。
あまりにもあっさりと書かれたその関係が、なぜかひどく引っかかった。
――手を繋いでいた。
あの夜の光景が、はっきりと焼き付いている。
水面に揺れる星。
その中で、当たり前のように触れ合う二人。
「私だって……」
ぽつりと、言葉が漏れる。
「あの子と水遊びがしたい」
自嘲するような響きだった。
けれど、それは紛れもない本音だった。
「手を繋いで、星が綺麗だなどと……言ってみたいものだな」
龍王としてではなく。
番としてでもなく。
ただ一人の存在として。
そう在れた時間は、あまりにも遠い。
ゆっくりと、視線を落とす。
自分の体へと。
寝台の上に横たわるそれは、まだ完全には自由にならない。起き上がることはできても、長く動き続けることは難しい。力を入れれば、すぐに限界が来る。
「……忌々しい」
低く、吐き捨てる。この体が。この遅さが。
何より、自分が“間に合わなかった”という事実が。
指先に力を込めるが、かつてのような強さはまだ戻っていない。
だが――それでも。
確かに、回復はしている。
あの頃に比べれば。
食事すらまともに取れず、ただ涙を流し続けていたあの日々に比べれば、今ははるかに“生きている”。
用意された料理は、きちんと残さず食べられるようになった。
味も感じる。
温かさも、分かる。
それだけで、十分な進歩だった。
「……龍界の滋養料理か」
ふっと息をつく。
あの独特の薬膳めいた食事は、身体の奥からじわじわと効いてくる。即効性はないが、確実に力を取り戻させるものだ。
そして、それを用意しているのは――
「……楼蘭」
名を呼ぶと同時に、扉の向こうで小さな気配が動いた気がした。
おそらく、また近くにいるのだろう。
あれは、いつもそうだ。
必要以上に距離を詰めることはしないが、決して離れもしない。
食事を運び、薬を用意し、体調を確認し、文句を言いながらも世話を焼く。
「……小言が多い」
ぼそりと零す。
だが、その声音に棘はない。
むしろ――わずかな苦笑が混じる。
「だが、まあ……」
言葉を探すように、少しだけ間を置いてから。
「……悪くはない」
それは、素直な評価だった。
かつての王としてではなく、ただの一人として受け取る“他者の気遣い”。
それがどれほど貴重なものかを、今の月麗は知っている。
視線を再び、ミアの手紙へと戻す。
友達。
そう書かれた関係。
だが、それだけで片付けられるほど、自分の中の想いは軽くない。
「……待っていろ」
誰に向けたのかも分からないまま、静かに呟く。
体はまだ不完全だ。
だが、いずれ動く。
完全に、自由に。
そのとき――自分は何を望み、何を選ぶのか。
まだ答えは出ていない。
けれど。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
――このままでは、終わらない。
龍の瞳が、静かに光を帯びる。
回復とともに、その奥に眠っていたものもまた、確実に目覚めつつあった。




