第五十四話
ニチカは、結局二、三日ほど庵に滞在しただけで、再び旅立っていった。
来たときと同じように静かに、けれどその背には確かな“重さ”を宿したまま。黒いマントはもう纏っていなかったが、それでも彼が背負っているものは、誰の目にも見えない形で存在していた。
ミアは見送らなかった。
庵の中で、ただ「いってらっしゃい」と言っただけだ。
それで十分だと、どこかで分かっていたから。
そして――まるでその不在を見計らったかのように。
一通の書簡が届いた。
封を見ただけで分かる、あの癖のある筆跡。無駄に美しく、どこか自己主張の強い文字。
「……来た」
ミアは小さく呟き、文を開いた。
中身は、想像以上に率直だった。
あの子供は誰なのか。なぜ私の番と手を繋ぐのだ。今後は慎んでいただきたい。
「……」
思わず、無言になる。
それから、ふっと息を吐いた。
「観てたんだ……」
呆れとも、苦笑ともつかない感情が滲む。
あの距離で。あの状態で。
それでもなお、届く視線。
龍という存在の執念深さを、改めて思い知らされる。
ミアはしばらく文を見つめたあと、机に向かった。
筆を取り、さらりと墨を含ませる。
少しだけ考えてから――迷いなく、書き出した。
あの子は草薙商会の次期商会長ニチカ。いずれあの大商会を継ぐ者で、私たちのお友達です。
そこまで書いて、一度筆を止める。
ほんの一瞬だけ、湖での光景が脳裏をよぎった。
手を繋いだこと。
あの願い。
それでも、ミアは表情を変えずに、続きを綴る。
月麗さまにおかれましては、お体の回復具合はいかがであらせますでしょうか。御身の回復を、心よりお祈り申し上げます。
最後まで書き終え、筆を置く。
余計な言葉は一切ない。
説明も、弁明も、しない。
ただ事実と、礼儀だけを並べた簡潔な返答。
「……これでいいでしょ」
小さく呟き、文を折る。
あの龍がこれをどう受け取るかなど、考える必要はない。
どうせ――また、何か言ってくる。
それはもう、分かりきっている。
外では、風が木々を揺らしていた。
穏やかな日常の中に、確実に混じり始めている“ざわめき”。
それはまだ、小さい。
けれど、確実に広がっていく気配を孕んでいた。




