第五十三話
湖から上がったばかりの湿り気は、次の瞬間には跡形もなく消えていた。
老師が指先をわずかに動かしただけだった。
風が、撫でる。
それは強さを伴わない、ごく穏やかな流れでありながら、的確に水分だけをさらっていく。髪の一本一本、衣の繊維の隙間にまで入り込み、余計なものをすべて連れ去るような――精密さすら感じさせる魔法だった。
ほんの一瞬。
それだけで、二人の髪も衣服も完全に乾いていた。
ニチカは、思わず目を細める。
「……すごいな」
率直な感想だった。
力任せでも、誇示でもない。極めきった者だけが到達する領域。無駄がなく、ただ“在るべき形”としてそこにある技。
ミアが、くすりと笑う。
「でしょ?」
胸を張るように、どこか誇らしげに。
「お師匠様の魔法、すごいんだから」
その声音には、確かな敬意と、揺るぎない信頼が滲んでいた。
老師は特に反応せず、焚き火の火を軽くいじるだけだったが、口元がわずかに緩んでいるようにも見える。
ミアはそのまま、湖畔に整えられた食事の前に座る。
両手を合わせて、小さく頭を下げた。
「いただきます」
静かな感謝の言葉。
それに倣うように、ナギが続き、ニチカも自然と同じ動作をとる。
夜の中、焚き火の灯りに照らされながら、食事が始まった。
しばらくは、ただ器の触れ合う音と、火のはぜる音だけが響く。
やがてニチカが、ふと口を開いた。
「……この料理、誰の作?」
問いかける声音は何気ないものだったが、その奥には微かな期待があった。
脳裏に浮かぶのは、あの時の味。
素朴で、あたたかくて、どこまでも優しい――ミアの手料理。
ナギが、口に食べ物を運びながら答える。
「これは老師だぞ」
あっさりとした返答。
「ミアに負けず劣らずの腕前だ。つーか、あの人はなんでもできる」
どこか呆れ混じりに言う。
ニチカは、もう一口食べて、静かに頷いた。
「……なるほど」
確かに美味い。
洗練されているわけではないが、無駄がなく、素材をきちんと活かしている。技術と経験が積み重なった味だ。
だが――ふと、言葉がこぼれる。
「なんでもできるんだな、魔法って」
焚き火の揺らめきを見つめながら、ぽつりと。
その声には、羨望があった。
否定できない距離感も。
「僕には、魔力があまりないから」
あまりにも自然に口にされたその言葉は、言い訳ではなかった。
ただの事実として。
だからこそ、重みがあった。
ニチカは、自分の手を一瞬見下ろす。
武器を握るために鍛えられた手。
魔法ではなく、力と技で道を切り拓いてきた証。
「……だから、物理攻撃の最強を目指したんだ」
静かに、言い切る。
誇りでもあり、選び取った道でもある。
ミアは、その横顔をじっと見ていた。
何も言わずに。
ただ、しっかりと。
やがて、ふわりと笑う。
「いいじゃん」
あっさりとした肯定。
けれど、その一言には迷いがなかった。
「ニチカにしかできないこと、いっぱいあるでしょ?」
そう言って、手元の料理をひとつ摘まみ、口に運ぶ。
「私、好きだよ。そういうの」
何気ない調子で。
けれど、その言葉はまっすぐだった。
ナギが小さく鼻を鳴らす。
「別に、お前はお前だよ」
マンティコアを一人で仕留めた少年を思い出しながら、ぶっきらぼうに言う。
老師は何も言わない。
ただ、焚き火の向こうからニチカを一瞥し――それだけで、十分だった。
ニチカは、ほんのわずかに目を伏せる。
その肯定を、受け取るように。
火が、静かに揺れる。
夜は深まり、食事は続く。
その場には、言葉以上に確かなものが流れていた。




