第五十二話
「手、繋いで」
それは命令でもなく、甘えでもなく、ただ自然に零れた言葉だった。
ミアは水に浮かんだまま、片手を差し出す。小さな掌が夜の湖面に揺れ、星を掬うように開かれている。
ニチカは一瞬だけ、その手を見つめた。
戦場で何度も血を浴びた指先。
無数の刃を握り、命を奪ってきたその手で――触れていいのかと、ほんのわずかに迷う。
だが。
その逡巡は、次の瞬間には消えていた。
静かに手を伸ばし、その掌を包み込む。
冷えた水の中にあっても、ミアの手は確かに温かかった。
ぎゅ、と。
小さく握り返される。
それだけで、胸の奥に張りつめていたものが、ほどけていく。
言葉はいらなかった。
ただ、触れているという事実だけで、十分だった。
しばらくのあいだ、ふたりはそのまま湖面に身を委ねる。
水は静かに揺れ、星はゆっくりと流れ、時間の感覚が曖昧になっていく。
やがて。
ふと、ニチカは顔を上げた。
湖畔の方に、橙の灯りが揺れているのが見える。
焚き火だ。
その周囲には、整えられた影がいくつか。
「……戻ろうか」
小さく呟き、ミアの手を引く。
そのまま、軽々と彼女の体を持ち上げた。
「わっ」
驚いた声をあげるミアを、肩に担ぎ上げる。
水を切り、足取りは迷いなく岸へと向かう。
以前ならば、からかい混じりに軽口を叩いていたかもしれない。
けれど今は、ただ自然にそうした。
守るべきものを、守るように。
湖から上がると、夜気がひんやりと肌を撫でた。
焚き火の炎がぱちぱちと音を立てている。
その暖かな光に照らされ、庵の前にはすでに夕食が整えられていた。
簡素だが、丁寧に用意された料理。
湯気の立つ器。
木の皿に並べられた素朴な品々。
その光景は、どこか現実離れした夜の中で、確かな“日常”を取り戻させるものだった。
ナギがちらりとこちらを見て、鼻で笑う。
「遅ぇよ」
ぶっきらぼうな言い方だが、その声にはわずかな安堵が混じっている。
老師は何も言わず、ただ火の番をしながら視線だけを寄越した。
ニチカはミアをそっと地面に降ろす。
その動作は、驚くほど丁寧だった。
まるで壊れ物を扱うように。
ミアは少しだけよろけながらも立ち、くすっと笑う。
「ただいま」
誰に向けるでもなく、そう言った。
その一言が、場の空気をやわらかくほどく。
炎が揺れる。
夜が、静かに深まっていく。
そしてその中に、確かに四人の時間があった。




