第五十一話
湖の水は夜の熱を静かに冷まし、肌に触れるたびにやわらかな波紋を広げていた。
ニチカが足を踏み入れたあたりは、ちょうど彼の背で立てるほどの深さで、水面は胸元までを覆っている。銀の長い髪が解けるように広がり、水に溶ける光の帯のように揺れていた。
ふと、振り返る。
――ミアは。
そこに沈んでいるはずの小さな姿が見えず、一瞬だけ胸がざわつく。
だが次の瞬間。
ぷかり、と。
水面に浮かぶ白が目に入った。
仰向けになって、ラッコのようにぷかぷかと浮かんでいるミアと、視線が合う。
「……」
言葉を失うほどに、自然で。
無防備で。
そして、どこか現実離れした光景だった。
遠くの浅瀬では、ナギと老師が並んで腰を下ろし、足だけを水に浸している。あの二人はどうやら泳ぐつもりはないらしい。時折こちらを一瞥しながらも、干渉はしてこない。
湖面には、夜空がそのまま映り込んでいた。
星々が揺れ、風に撫でられて形を変え、まるで水の底へと落ちていくかのように瞬いている。
「ニチカ、みて」
ミアの声が、水の上を滑るように届く。
「星が、落ちてきそうだね」
くすりと笑う。
その笑顔が、あまりにも無垢で――
あまりにも、遠い。
ニチカは、ほんの一瞬、見とれてしまった。
言葉も、思考も、追いつかない。
ただ、その光景を、焼き付けるように見つめるしかなかった。
やがて、ゆっくりと歩み寄る。
水を掻き分ける音だけが、静かに響く。
手を伸ばし、湖面に広がる真珠色の髪をひと房、すくい上げた。
水を含んで重くなったそれは、指の間からするりと流れ落ちそうで――けれど、確かにそこにあった。
ニチカは、それを引き寄せる。
そして。
そっと、唇を落とした。
それは衝動ではなかった。
奪うようなものでもない。
ただ――誓いのように。
許しを乞うように。
静かに触れた。
「……どれだけ」
声が、低くこぼれる。
水面に吸い込まれるように。
「僕が変わってしまっても」
あの三ヶ月。
言葉にできない時間。
積み重ねたもの、捨ててきたもの。
すべてを背負ったまま。
「君たちの隣に、いてもいいよね」
それは願いだった。
懇願に近いほど、切実な。
対等でありたいと願いながらも、どこかで許しを求めてしまうほどに。
ミアは、浮かんだまま、しばらく何も言わなかった。
星を映す瞳が、ゆっくりとニチカを捉える。
その視線は、逃げ場を与えないほど真っ直ぐで――
同時に、すべてを受け止めるほど静かだった。
水が、ふたりの間でわずかに揺れる。
やがて、ミアは小さく息をついた。
「……いいよ」
あまりにも、あっさりと。
けれど、その一言には何の迷いもなかった。
「最初から、そういう約束でしょ?」
くすりと笑う。
あの日と同じように。
「友達、なんだから」
その言葉は、軽い。
軽いはずなのに――
ニチカの胸の奥に、深く、強く沈んだ。
拒まれなかった。
けれど、特別にもされなかった。
それでも。
それでいい、と。
今は、思えた。
湖面に揺れる星が、ふたりの間で静かに瞬いていた。




