第五十話
庵の中に満ちていた張り詰めた空気は、ふとした一言でほどけた。
「……暑かったんじゃない?」
ミアが何気なく言う。
夜とはいえ、夏の気配は濃い。外気はぬるく、風も重たい。あれだけの装備を身に纏っていれば、なおさらだろう。
「外の湖で、水浴びでもしようか」
続けてそう提案する声音は、いつもと変わらぬ軽やかさだったが――その内側には、わずかな変化があった。
ニチカを見る視線。
その距離。触れ方。
どれも、ほんの少しだけ変わっている。
子供同士の無邪気な近さではない。
かといって遠ざけるわけでもない。
戦士に対する、それ相応の距離と敬意。
ミア自身はそれを意識しているわけではなかった。ただ、自然とそうなっていた。
けれど、ニチカはそれをはっきりと感じ取った。
――ああ、と。
胸の奥で、何かが静かにほどける。
ようやく。
ようやく、ここに戻ってきたのだと。
彼女の隣に立つために積み上げたものが、無駄ではなかったのだと。
その安心が、じわりと広がる。
「……水浴びって」
ふっと、口元が緩む。
先ほどまでの張り付いたような笑みではない。
「裸?」
軽口を叩く声音には、確かに“いつもの調子”が戻っていた。
ナギが「は?」と眉をひそめるより早く――
ゴツン、と。
乾いた音が響く。
「着衣水泳に決まってるだろうが」
老師の拳骨が、容赦なくニチカの頭に落ちていた。
ニチカは軽く頭を押さえながらも、苦笑する。
「……冗談だよ」
だが、その表情はどこか柔らかい。
場の空気に、ようやく馴染んできた証のように。
ミアは、そんな二人のやり取りを見て、くすりと笑った。
「行こ」
短く言って、先に外へと歩き出す。
白い衣が、夜の中で淡く浮かび上がる。
ナギが肩をすくめながら続き、ニチカもその後ろを歩く。
外に出ると、空は深い群青に染まり、星がいくつか瞬いていた。湖の水面は静かで、月の残り光を受けてわずかに揺れている。
昼間とは違う、ひんやりとした風が肌を撫でた。
ミアは靴を脱ぎ、そのまま水際に立つ。
「冷たくて気持ちいいよ」
振り返り、にこっと笑う。
その笑顔は――やはり、変わっていない。
ニチカは少しだけ目を細めた。
変わったものと、変わらないもの。
その両方がここにある。
そして、自分もまた、その中に立っている。
ゆっくりとマントを脱ぎ、今度は何も仕込まれていない軽い装いのまま、水辺へと足を進める。
波紋が、静かに広がった。
夜の湖は、思っていたよりもずっと穏やかで――
どこか、帰ってきた者を受け入れるような静けさを湛えていた。




