第四十八話
その夜は、風がぬるく、どこか湿り気を帯びていた。
夏の気配が濃くなりはじめた頃で、庵の外では草の匂いと土の熱がゆっくりと混ざり合っている。昼間の熱をまだわずかに残した空気が、夜の静けさの中でたゆたっていた。
戸口に立つ気配に、ミアは顔を上げた。
――三ヶ月ぶりだった。
そこにいたのは、間違いなくニチカだった。穏やかに佇み、いつものように柔らかく微笑んでいる。その立ち姿も、空気の纏い方も、確かに彼自身のものだった。
けれど。
それでも。
「……変わったね?」
ミアの口からこぼれた言葉は、驚きよりも、どこか寂しさを帯びていた。
無理もない。
ほんの三ヶ月前、肩を並べて笑っていたはずの少年は、そこにはいなかった。黒いマントを纏い、その影を背負うように立つ姿は、すでに“戦場”をくぐり抜けてきた者のそれだった。
背も伸びている。
かつては頭ひとつ分ほどの差だったのに、今ではミアが顔を上げなければ、その表情すら捉えられないほどになっていた。骨格が変わり、肩の線が鋭くなり、しなやかさの中に確かな重みが宿っている。
ただ、ひとつだけ。
その微笑みだけが――変わっていないように見えた。
「……仕事で、少しだけ遠くに行ってたんだ」
静かな声で、ニチカは答える。
曖昧な言い方だった。
“少しだけ”という言葉の軽さと、その姿の変化があまりにも釣り合っていない。
ミアは、じっと彼を見上げた。
その笑みの奥を、覗き込むように。
けれど、そこにあるのは柔らかな表情だけで――感情の輪郭は、うまく掴めない。
「……重いでしょう、それ」
ふと、ミアは視線を落とした。
黒いマント。
ただの衣ではないと、直感が告げている。
「ここでは、解いてもいいんだよ」
やさしく、そう言った。
この場所は、戦場ではない。
商会でも、任務の場でもない。
ただの――帰る場所だと。
ニチカは、その言葉にほんのわずかに目を細めた。
そして、少しだけ逡巡する。
何かを測るように。
あるいは、許しを求めるように。
やがて。
静かに一歩踏み出し、ミアの前で膝をついた。
床に触れるその動きは滑らかで、迷いがない。だがその姿勢は、どこか儀式めいていて――かつての“友達同士の距離”とは、明らかに違っていた。
「……解いてくれる?」
そう言って、ニチカは顔を上げる。
上目遣いで。
わずかに艶を帯びた笑みを浮かべて。
その仕草は、計算なのか、それとも自然に滲み出たものなのか、もはや判別がつかない。
ただひとつ言えるのは――
それはもう、“少年”のものではなかった。
ミアは、しばらく黙ってその姿を見つめていた。
かつて、無邪気に笑っていた少年。
血に濡れ、世界を渡り歩き、何かを背負って帰ってきた存在。
その両方が、今、目の前にいる。
やがて、ミアは小さく息をつき――
ゆっくりと、手を伸ばした。
黒いマントの留め具に、指先が触れる。
その瞬間。
布越しに伝わるのは、ほんのわずかな熱と――
言葉にできない“重さ”だった。
それでもミアは、何も言わずにそれを外す。
音もなく、するりと。
黒が、ほどける。
覆い隠されていたものが、静かに姿を現そうとしていた。




