第四十七話
それからしばらくのあいだ、世界はまるで嵐の前の静けさのように、穏やかな日常を装って流れていった。
あれほど濃密だった夜の出来事が嘘のように、庵にはゆるやかな時間が戻る。朝は薄い光とともに始まり、昼は静かに過ぎ、夜は暖炉の火の音に包まれて終わる。外の世界では未だ混沌が渦巻いているはずなのに、この場所だけが切り取られたように、ひとつの“間”を保っていた。
ただ――小さな変化は、確かにあった。
ニチカが、来なくなった。
あれ以来、ぱたりと姿を見せない。あの騒がしくも賑やかな気配が消えたことで、庵は一層静けさを増した。ナギは特に何も言わなかったが、時折、戸口に視線をやる癖がついたのをミアは知っていた。
けれど、それを埋めるように。
別の“気配”が届くようになった。
――手紙だ。
三日に一度、決まった間隔で。
差出人の名など、確認するまでもない。
最初のそれは、ひどく頼りないものだった。
細く、かすれ、ところどころで途切れる筆跡。文字は整っているはずなのに、線に力がなく、まるで書くことそのものが苦痛であるかのようだった。言葉もまた短く、簡素で、必要最低限しか綴られていない。
けれど、その中にある想いだけは、はっきりと伝わってきた。
――生きている、と。
――戻ろうとしている、と。
ミアはそれを、何も言わずに受け取った。
返事を書くこともあれば、書かないこともある。ただ、届いた手紙は必ず読み、丁寧に畳み、小さな箱の中にしまっていった。
日が経つごとに、その文字は変わっていった。
一筆一筆に、少しずつ力が宿るようになる。途切れていた線は繋がり、震えていた筆致は安定し、やがて文章そのものにも余裕が生まれていく。
一行だったものが、二行に。
二行だったものが、数段の文へと。
そこには、龍泉洞の様子が簡潔に記されるようになり、時折、楼蘭とのやり取りが皮肉めいて添えられ、そして何より――
ミアへ向けた言葉が、確かに増えていった。
それでも決して、過度に踏み込むことはない。
あの夜のような、直接的な言葉は綴られない。
ただ、距離を測るように、少しずつ、少しずつ。
やがて三ヶ月が過ぎた頃。
届いた一通の手紙を開いた瞬間、ミアはほんのわずかに目を細めた。
そこにあったのは――
見覚えのある、流麗な字だった。
かつて、あやのとして過ごしていた頃に幾度となく目にした筆跡。無駄のない美しさと、どこか傲慢さすら感じさせる整い方。そのすべてが、完全に戻っている。
もはや“回復途中”ではない。
「……順調みたいだね」
ぽつりと、ミアは呟いた。
誰に向けたわけでもない言葉だった。
けれど、その声には確かな安堵が滲んでいた。
窓の外では、風が柔らかく草を揺らしている。
季節はゆっくりと巡り、世界は何事もなかったかのように回り続ける。
だが、その静けさの裏で――
確実に、何かが整いつつあった。
再び動き出す、その“時”に向けて。




