第四十四話
ひとしきりの報告と叱責と、そして呆れにも似た沈黙が落ちたあと、庵の空気はようやく少しだけ落ち着きを取り戻していた。暖炉の火はほとんど燃え尽きかけ、外から差し込む夜明けの光が、室内の輪郭をゆっくりと浮かび上がらせていく。
ミアは小さく息をつき、先ほどまでのやり取りを思い返すように視線を落とした。
「……月麗ね」
ぽつりと、その名を口にする。
老師もナギも、何も言わずにその続きを待った。
「千年以上、泣き暮らしてたみたい」
その言葉は軽くはない。だが、ミアの声はどこまでも静かだった。
感傷に浸るでもなく、同情を強く滲ませるでもなく――ただ事実として、それを置く。
「起き上がる体力も、ほとんど残ってなかった」
あの竜骨の間で見た光景が、脳裏に蘇る。広がる白銀の髪、涙に濡れた頬、そして抱き寄せたときに感じた骨ばった腕の感触。かつて王として君臨した存在とは思えないほどに、弱りきっていた。
ミアは、自分の手を軽く握る。
「手もね、骨が浮き出てて……」
わずかに、言葉が途切れる。
だがすぐに、いつもの調子に戻る。
「瞳には光、戻ってたけど。力は、まだ全然」
端的にまとめる。
「回復には、時間がかかると思う」
その評価は、感情ではなく観察に基づいたものだった。
老師は腕を組み、静かに頷く。
「……つまり」
その言葉を引き取るように、ナギが口を開く。
「契約までには、猶予があるってことか」
ミアはこくりと頷いた。
「うん」
短い肯定。
だがその中には、すでに次の手を見据えた冷静な判断が含まれている。
「それに――」
少しだけ首を傾げる。
「現龍王の楼蘭様と、ちょっと奪い合いみたいになったけど」
“ちょっと”で済ませていい規模ではないのだが、本人は気にしていない。
ナギが思わず額を押さえた。
「……ちょっと、ねぇ」
ぼやくが、ミアは気にせず続ける。
「でも、あの人は」
一瞬だけ、言葉を選ぶように間を置く。
「月麗を、拒むことはしないと思う」
断言ではない。
だが、確信に近い響きだった。
楼蘭のあの視線。あの苛立ちと、それでもなお滲んでいた敬意と執着。それを思い出せば、答えは明白だった。
老師は、ふっと息を吐く。
「……面倒な均衡だな」
どちらも譲らない。
だが、完全に対立もしない。
その歪な関係の中心に、ミアがいる。
ナギは、ちらりと妹を見る。
小さな体。
まだ幼い、あまりにも無防備に見える姿。
だが、その内側にあるものは、もはや“子供”のそれではない。
「……ほんとにお前さ」
小さく呟くが、その言葉は最後まで続かなかった。
ミアは、そこでふらりと揺れた。
ほんのわずかに。
だが確かに。
「……あ」
ナギが手を伸ばすより早く、ミアはその場にぺたりと座り込む。
目をぱちぱちと瞬かせ、それから小さく笑った。
「……つかれた」
その一言が、すべてだった。
張り詰めていた糸が、切れたように。
四歳児の体には、あまりにも過酷な一夜だった。
ダンジョン、調薬、龍界への往復、そして王との対話。
精神がどれほど成熟していようと、肉体は正直だ。
限界だった。
ナギがすぐに立ち上がり、そっと肩を支える。
「ほら、もういい。寝ろ」
声音は、いつものぶっきらぼうなものではなく、明確に優しかった。
ミアは素直に頷く。
「うん……」
抵抗する気力すらない。
そのまま、ナギに支えられながら奥の部屋へと向かう。
老師は、その背中を黙って見送っていた。
小さな背中。
だが、あまりにも多くのものを背負っている。
やがて、寝室の戸が静かに閉まる。
庵の中に、再び静寂が戻った。
朝の光が、ゆっくりと満ちていく。
老師は、ぽつりと呟く。
「……嵐の目、か」
その言葉は、誰に向けられたものでもなかった。
ただ、これから先に訪れるであろう“流れ”を見据えた、ひとりごとだった。




