第四十三話
ミアの説明が一通り終わったとき、庵の中にはしばしの沈黙が落ちた。
暖炉の火が小さく爆ぜる音だけがやけに大きく響き、夜明け前の薄い光が窓の隙間から差し込み始めている。外の空気はまだ冷たく、だが確実に朝へと移ろう気配を孕んでいた。
その静寂を破ったのは、老師だった。
「……つまり」
低く、押し殺した声。
「“あいつ”と、従属契約を結ぶと?」
言葉の端が、わずかに硬い。
次の瞬間、こめかみに青筋が浮き上がる。
珍しいことだった。滅多に感情を表に出さないこの男が、ここまで露骨に苛立ちを見せるのは。
ナギが思わず視線を逸らす程度には、空気が重くなった。
ミアは、そんな空気の中心にいながら、あっさりと頷く。
「うん。そういう話」
あまりにも軽い。
その軽さが、逆に火に油を注ぐ。
老師は片手で額を押さえ、深く息を吐いた。
「……それを聞いて、現龍王は怒ったが」
言葉を区切る。
整理しているのだ。
この理解しがたい状況を、自分の中で順序立てている。
「月麗は、乗り気……と」
確認のように言う。
ミアは、またこくりと頷いた。
ナギが横で小さく呻いた。
「頭痛ぇ……」
ぼそりと漏らす。その声音には本気の疲労が滲んでいる。
老師もまた、ゆっくりと目を閉じた。
「……頭が痛くなる話だな」
吐き出すように言う。
まさしくその通りだった。
龍界の頂点に立つ存在と、その前王。そしてその両方を同時に手玉に取るような発言をして、なおかつ無傷で帰ってくるなど――普通ならあり得ない。あり得ていい話ではない。
だが、目の前の少女は、それをやってのけている。
そして、当人はどこまでも平然としている。
ミアは、少しだけ頬を掻きながら言った。
「だって」
言い訳のようでいて、実際には極めて合理的な判断だった。
「もう月麗の印、ついちゃってるし」
その一言に、ナギの視線が鋭くなる。
老師の目も、細くなった。
ミアは、自分の左手首を軽く持ち上げる。そこに浮かぶ紋様は、今は服の下に隠れて見えないが、その存在は確かにそこにある。
「下手に“番だ”なんだって押し切られる前に、先に条件を提示したの」
淡々とした口調。
だが、その内容は極めて計算されたものだった。
受け身に回れば、確実に不利になる。
ならば先手を打つ。
相手の選択肢を縛り、自分の土俵に引き込む。
それはまさに、交渉の基本にして極意。
ナギが、ぽつりと呟く。
「……お前さ」
半ば呆れ、半ば感心した声だった。
「四歳児のやることじゃねぇよ、それ」
ミアは、にこっと笑う。
「でしょ?」
まったく悪びれない。
老師は、深く深く息を吐いた。
そして、ようやく目を開ける。
その視線は、もう苛立ちだけではなかった。分析と、そしてわずかな警戒。
「……なるほどな」
ゆっくりと呟く。
「主導権を握るために、“従属”という形を逆に利用したか」
普通であれば、従属契約とは支配される側のものだ。
だがミアは、それを“枷”としてではなく、“枠”として使おうとしている。
関係性を固定し、暴走を防ぎ、かつ自分に有利な形で維持するための装置として。
「やり方としては間違っておらん」
認める。だが。
「相手が悪すぎる」
きっぱりと言い切った。
龍王と、その前王。
どちらも世界の頂点に立つ存在だ。
そのどちらにも同時に首輪をかけようとするなど、正気の沙汰ではない。
ナギも腕を組み、深く頷く。
「だな。普通に考えて無理筋だろ」
だが、ミアは首を傾げた。
「そう?」
きょとん、とした顔で言う。
「だって、どっちも話通じるよ?」
あまりにもあっけらかんとしたその一言に――
老師とナギは、同時に沈黙した。
数秒後。老師が、ぽつりと呟く。
「……基準がおかしい」
心底からの感想だった。




