第四十二話
月が西の空へ沈みかけ、夜と朝の境界が曖昧に溶け合う頃、ミアは静かに庵の扉を押し開けた。冷えた外気がわずかに流れ込み、暖炉の残り火がぱちりと小さく弾ける。夜通し灯っていた炎はすでに弱まり、橙色の光が床と壁に長い影を落としていた。
庵の中は、起きている者の気配に満ちていた。
ナギは、相変わらず居間にいた。背もたれに浅く身を預け、まるで人間のようにくつろいでいるが、その瞳は一瞬たりとも眠っていない機械の静けさを宿している。彼は睡眠を必要としないオートマタであり、この家において“夜を見張る者”でもあった。そして今日は――もう一人、そこにいた。
老師である。
いつものように胡座をかき、卓の向こうに座している。その姿は静かで、揺らぎがなく、まるで最初からそこにあった岩のようだったが、よく見れば目の下にほんのわずかな陰が差している。彼もまた、一睡もしていないのだと分かる。
ミアが戻るのを、待っていたのだ。
扉が閉まる音を聞くと同時に、老師はゆっくりと顔を上げた。
「……間に合ったようだな」
低く、落ち着いた声だった。責めるでも、迎えるでもない。ただ事実を確認するような声音。
その一言に、どれだけの計算と見通しが含まれているのかを、ミアはよく知っている。
あの薬は特別なものだった。満月の夜にしか咲かないスノードロップを用い、歌と調薬を合わせて初めて成立する霊薬。効力は絶大だが、同時に非常に繊細で――その効果は一晩で消える。ゆえに、今夜という条件を逃せば、次に同じものを作れる保証はなかった。
だからこそ、“間に合ったかどうか”がすべてだった。
ミアは、靴を脱ぎながら小さく頷く。
「うん」
そして、にこりと笑って言った。
「月麗は目覚めたよ、お師匠さま」
その言葉に、ナギがわずかに身を起こす。老師は一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの無表情に戻った。
「……面倒をかける龍だ」
ぼそりと呟く。その声音には呆れが混じっているが、同時にどこか安堵の色もあった。
そして、間を置かずに問いを重ねる。
「で?」
短い一音。だが、それだけで十分だった。
――続きを話せ。
そういう意味だ。
ミアは一瞬だけ言葉に詰まり、それから視線を少し逸らす。
「別に……特に、何も?」
歯切れが悪い。あまりにも。
ナギの眉がぴくりと動いた。
老師は、ゆっくりと口元を緩める。
笑っている。
だが――その瞳は、まったく笑っていなかった。
「……何も無いわけがない、わなぁ?」
静かに、しかし逃げ道を完全に塞ぐ声音だった。
ミアは一瞬だけ固まり、次いで「うーん」と小さく唸る。その仕草は年相応の子供そのものだが、その内側で何を取捨選択しているのかは計り知れない。
やがて、観念したように口を開いた。
「伴侶がいないか聞かれて」
ナギの目が細くなる。
「楼蘭様が来て」
今度は、わずかに眉間に皺が寄る。
「どうにかこうにか帰ってこれた」
言い切った。
それで終わり、という顔で。
そして――なぜか胸を張る。
「うん。そうとしか言いようがない」
自信満々である。
ナギは天井を仰いだ。
老師は、しばし沈黙した。数秒。いや、体感ではもっと長い。
そして。
「……ばかもん」
ぴしり、と。
乾いた音が響いた。
ミアの額に、見事なデコピンが炸裂する。
「いたっ!」
小さな悲鳴が上がる。額を押さえてしゃがみ込むミアを見下ろしながら、老師はため息を吐いた。
「説明が雑すぎる」
呆れと苛立ちが、はっきりと滲んでいる。
ナギも腕を組み、こくこくと無言で頷いた。完全に同意である。
「端折るな。順を追って話せ。誰が、どこで、何をして、どうなった」
淡々とした口調だが、その実、逃げ場はない。
ミアはしばらく頬を膨らませていたが、やがて観念したように息を吐いた。
「……はーい」
しぶしぶといった様子で、座り直す。
暖炉の火が、ぱちりと弾けた。
夜明け前の静かな空気の中、三人の影が揺れる。
こうしてミアは、龍泉洞での出来事を――最初から最後まで、余すことなく説明させられる羽目になったのだった。




