第四十話
時は遡る――草薙商会本部。
幾重にも重なる回廊と、魔力で補強された石壁に囲まれたその巨大な建造は、単なる商館ではなく、一つの国家にも匹敵する機能を内包した“都市”であった。交易、諜報、傭兵、金融――あらゆる流通と力の交差点に位置するその中枢に、商会長執務室はある。重厚な扉の向こうには、世界の裏側を動かす決断が日々下される空間が広がっていた。
その執務室に、ひとつの報せが届く。
――商会長の孫、草薙ニチカ帰還。
――手に、極めて高純度の大型魔石を所持。
報告を受けたシレンは、書類から視線を上げることすらなかった。ただ静かに羽根ペンを置き、指先で机を一度叩いたのみである。その仕草には驚きも動揺もなく、むしろ「やはりか」と言わんばかりの、確信に近い納得が滲んでいた。
だが、その瞳の奥には、別の光が灯っている。
――面白い。
それは純粋な興味だった。あの少年が何を持ち帰るかではない。どのようにして、それを手に入れたのか。そこにこそ価値がある。
「すぐに呼べ」
短い命令が下る。休息を与えるという選択肢は、最初から存在しない。草薙の血を引く者にとって、成果とは即座に精査されるべき“商品”であり、時間を置くこと自体が損失であるからだ。
やがて、重い扉が開かれた。
足音は軽い。しかし、その気配は鋭い。
現れたのは――ニチカだった。
整いすぎた美貌はいつもと変わらないが、その全身には戦闘の痕跡が生々しく刻まれている。衣服は裂け、乾ききっていない血が斑にこびりつき、褐色の肌にも細かな傷がいくつも走っている。だが、そのどれもが致命傷ではなく、むしろ彼がそれらを“かすり傷”として処理してきたことを物語っていた。
そして、その腕に抱えられているもの。
赤子の頭ほどもある、深い輝きを放つ魔石。
部屋の空気が、わずかに重くなる。
そこに込められた魔力量が、周囲の魔力と共鳴しているのだ。
ニチカは、それを何の気負いもなく抱えたまま、執務机の前に立った。
「……で、それはどうした?」
シレンの問いは短い。だが、その声音には明確な意図があった。
――説明しろ。
価値を。過程を。すべてを。
ニチカは一瞬だけ考え、そしてあっさりと口を開いた。
「ミアの家に遊びに行ってたら、こうなりました」
あまりにも簡潔な答えだった。
それは報告としては不十分どころか、ほぼ無意味に等しい。
だが――シレンは、わずかに口元を緩めた。
「……さもありなん」
否定はしない。むしろ納得している。
その少女の異質さを、彼は誰よりも理解しているからだ。
だが、それで終わるはずがない。
シレンはゆっくりと椅子に背を預け、指を組んだ。
その仕草は、尋問の始まりを告げる合図でもあった。
「どういう経緯で手にした魔石なのだ――という意味だが?」
視線が、鋭くなる。
先ほどまでの柔らかさは消え、商人としての冷徹な眼がそこにあった。
ニチカはわずかに肩をすくめる。
「省略したつもりは――」
「するな」
被せるように、シレンが言った。
だがその声には、苛立ちよりも明確な“期待”が込められている。
その証拠に、彼の瞳は輝いていた。
まるで珍しい逸品を前にした蒐集家のように。
あるいは、未知の価値を測ろうとする鑑定士のように。
ニチカは、その視線を正面から受け止める。
逃げる必要も、隠す必要もない。
これは取引ではないが――
報告は、評価に直結する。
そしてそれは、彼にとっては何よりも重要な“信用”の積み重ねだ。
「……仕方ないな」
小さく息を吐く。
その仕草には、わずかな諦めと――どこか楽しげな色が混じっていた。
脳裏に浮かぶのは、白いフードの少女。
無邪気に笑い、無茶を言い、そして――すべてを引き寄せる存在。
ニチカは、言葉を選ばない。
ありのままを語ることに決めた。
「今日のこと、最初から話すよ」
そうして彼は語り始める。
庵での時間、そして――ダンジョン。
ゴブリンの集落との対話。
マンティコアとの戦闘。
そして、この魔石に至るまでの一連の流れを。
その一つ一つを、決して省略することなく。
言葉にしながら、ニチカ自身もまた再認識していく。
――あの少女が、どれほど異質であるかを。
――そして、自分がどれほど深く、その軌道に巻き込まれ始めているのかを。
シレンは、ただ黙って聞いていた。
途中で一度も口を挟まず、ただ静かに。
だがその内側では、無数の思考が高速で巡っている。
情報を整理し、価値を測り、未来を計算する。
そして。
結論は、すでに出ていた。
――これは。
単なる“逸材”ではない。
世界そのものを動かし得る、“起点”だ。
ニチカの語りが終わる頃、執務室の空気はすっかり変わっていた。
最初にあったのは、ただの報告だった。
だが今ここにあるのは――ひとつの“時代の兆し”だった。




