第三十九話
張り詰めた空気の中で、ミアはゆっくりと身を引いた。
楼蘭の腕から、するりと抜ける。
無理に振りほどくでもなく、自然に――最初からそこに束縛などなかったかのように。
そして、向き直る。
月麗へ。
白い衣が、かすかに揺れた。
「龍王ではないあなたは、もう自由です」
静かな声。
だが、その言葉は竜骨の間に深く沈む。
「私が“番”であるのだと言い張るのでしたら――」
ほんのわずかに、口元を緩める。
「ご自由になさってください」
拒絶ではない。受容でもない。
選択の放棄。
そして。
「わたしは、白き魔女のミア」
自らを定義する。
それは、かつての“あやの”ではないという宣言でもあった。
「ちょうど、騎乗できる使い魔などが欲しいと思っていたところですが」
さらりと。
あまりにも軽やかに。
とんでもないことを言ってのけた。
一瞬の、沈黙。
そして、楼蘭のこめかみに、青筋が浮かぶ。
「……ちょっと」
声音が、わずかに低くなる。
「許嫁殿」
笑ってはいる。
だが、明らかに笑っていない。
「前王陛下に、それは無いんじゃないの?」
抑えた調子の中に、はっきりとした苛立ちが滲む。
だが――月麗は。
その言葉に、目を丸くしていた。
驚き。そして次の瞬間――
くつくつ、と。
喉の奥で、笑いがこぼれる。
「……はは」
久方ぶりの感情の揺れ。
「なるほど」
ゆっくりと頷く。
「それは――実に面白い」
その瞳には、先ほどまでとは違う光が宿っていた。
執着ではない。
興味。
そして、愉悦。
ミアは、そんな二人を一瞥すると、くるりと踵を返した。
「可能性のお話をしたまでですわ」
振り返らずに言う。
「お気になさらず」
「それでは御前失礼します」
そして、そのまま歩き出す。
トコトコと。
四歳児の歩幅で。
あまりにも小さく。あまりにも軽やかに。
だが、その背中は、誰よりも大きく見えた。
「……待ちなよ」
楼蘭が、即座に動く。
その進路に立ち塞がろうと、一歩踏み出す。だが――
「よせ、楼蘭」
月麗の声が、それを止めた。
ぴたりと。
楼蘭の足が、止まる。
振り返る。
月麗は、寝台に横たわったまま。
だがその瞳は、はっきりと楼蘭を見据えていた。
「聞いただろう」
静かに、言う。
「お前の許嫁殿は――」
わずかに、口元を緩める。
「其方を“現王”と定めた」
その言葉は、重い。
「その責務を、放棄するなとな」
楼蘭の瞳が、揺れる。
月麗は、続ける。
「そして私は――」
自嘲気味に、息を吐く。
「この体では、使い物にならんから」
ほんのわずかに、笑う。
「早く回復しろ、と」
言い切る。沈黙。
その意味は、あまりにも明白だった。
「……互いに」
月麗の声が、やわらかくなる。
「頭が上がらんようだな」
楼蘭は、何も言わない。ただ、じっとその言葉を受け止めている。
月麗は、ゆっくりと目を細めた。
「よろしく頼む」
それは――
命令ではない。拒否もできない。ただの願い。
いや。
託されたもの。楼蘭にとって、それは何よりも重い言葉だった。
心酔する相手からの。
唯一の、希望。
しばらくして、楼蘭は、小さく息を吐いた。
「……ほんと」
口元に、苦い笑みを浮かべる。
「敵わないな、あの子にも……あなたにも」
視線の先には、すでに小さくなった背中。
白い衣が、遠ざかっていく。
その姿を見送りながら。楼蘭は、ゆっくりと目を閉じた。




