第三十三話
龍界の深部――龍泉洞。
そこは、他界のいかなる宮殿とも異なる気配を持っていた。
天井は遥か高く、鍾乳石のように連なる龍脈の結晶が、淡い光を放っている。水音が絶えず響き、霊気が濃く満ちていた。空気そのものが重く、呼吸の一つひとつに力が要る。
その中心――謁見の間。
煌々と灯る灯りの中に、ひとつの影があった。
玉座。
そこに、だらしなく腰掛ける男。
楼蘭。
片足を投げ出し、肘を玉座の肘掛けに預け、仙酒を傾けている。黒曜の髪が肩から流れ落ち、わずかな動きで光を弾く。
その姿は、あまりにも無造作で――
同時に、完成されすぎていた。
ミアは、ただ一人でその場に立つ。
白いフードの奥に、その表情を隠したまま。
楼蘭が、ゆるく視線を向ける。
「やあ、許嫁殿」
声は軽い。
だが、その奥にあるものは軽くない。
「こんな夜中に、夜這いでもしに来たのかい?」
くつくつと笑う。からかうように。
「生憎、君みたいな幼い子には興味は無いのだけれども」
言いながら、髪をかき上げる。
その仕草一つで、空気が揺れる。
蠱惑的。
まるで絵画の中の人物が、そのまま動き出したかのような美しさ。
だが、ミアは、一切反応しない。
その言葉も、その態度も。何ひとつ、心を動かさない。
ただ、静かに一歩進み出る。
「竜骨の間で眠る、月麗さまに」
丁寧な言葉。揺らぎのない声音。
「謁見賜りたく、参上致しました」
手にした薬を、わずかに掲げる。
「月が沈む前に、この薬をお届けしたく存じます」
それだけを、告げる。
沈黙が落ちる。
楼蘭の手が、止まった。
杯を傾けていた動きが、ぴたりと。
片眉が、ぴくりと跳ね上がる。
「……へぇ」
低く、呟く。
視線が、鋭くなる。
「私を差し置いて、叔父上に?」
その声音は、先ほどまでの軽さを失っていた。
怒りか。あるいは――嫉妬か。
自分でも名付けきれない感情が、胸の奥でざわめく。
楼蘭は、ゆっくりと立ち上がった。長い影が、床に伸びる。
「随分と、勝手なことを言うね」
一歩、近づく。
「ここは私の領域だ」
その言葉には、明確な“支配”の意思があった。
「許しもなく、最奥へ通すと思うかい?」
問い。
だが、それは拒絶に近い。
ミアは、動かない。
ただ、静かに楼蘭を見上げる。
フードの奥から。そして――
「思いません」
あっさりと、肯定した。
楼蘭の目が、わずかに細くなる。
「ですが」
続ける。
「あなたは、止めません」
断言だった。静かで、揺るがない確信。
その言葉に――楼蘭の表情が、ほんのわずかに歪む。
「……ずいぶんな自信だ」
だが、その声には先ほどとは違う色が混じっていた。
ミアは、さらに一歩踏み出す。
「月麗さまは、苦しんでおられます」
その一言。
空気が、変わる。
龍泉洞の霊気が、わずかに震える。
「長く、深く」
「誰にも触れられず」
言葉を重ねるごとに、静寂が濃くなる。
「だから私は、救いに来ました」
ただ、それだけ。
願いでも、懇願でもない。宣言。
楼蘭は、黙ってミアを見下ろした。
その瞳の奥で、何かが揺れている。
叔父への敬愛。
失ったものへの執着。
そして――目の前の少女への、得体の知れない感情。
やがて。ふっと、息を吐いた。
「……本当に」
小さく、笑う。
「面白いね、君は」
くるりと背を向ける。
「いいよ。通してあげる」
軽く手を振る。
「ただし」
振り返らずに言う。
「何が起きても、私は知らない」
それは、許可であり――警告でもあった。
ミアは、深く一礼する。
「ありがとうございます」
そして、歩き出す。
龍界の最奥。竜骨の間へ。
その先に待つのは――かつて王であった龍。
そして、未だ癒えぬ“何か”。
楼蘭は、その背を見送る。
杯を、再び手に取る。
だが――もう、酒の味はしなかった。




