第三十一話
調薬の余韻が、まだ庵の中に残っていた。
ほのかに甘く、澄んだ香り。先ほどまで光を宿していた薬は、今は静かに器の中で眠っている。
ミアはそれを確認すると、くるりと振り返った。
「ニチカは、もう帰らなきゃね」
あまりにもあっさりとした口調。
まるで、ついさっきまで命を賭けた戦いをしていたことなど、なかったかのように。
「私はお風呂に入って、出かけるよ」
さらりと言う。
「ありがとうね」
にこっと笑って。
それだけを残して、庵の奥へと消えていった。
残された三人分の空気が、少しだけ遅れて動く。
ナギが、その背中を見送ったまま呟く。
「あいつ……一人で大丈夫なのか?」
声には、はっきりとした心配が滲んでいる。
老師は、腕を組んだまま動かない。
ほんのわずかに眉を寄せる。
「……龍は鼻が利くからな」
ぼそりと、言う。
「他の匂いがついていたら、嫌がるんだよ」
納得しているわけではない。
むしろ、どこか苦々しい。
だが――否定もしない。
ナギは、顔をしかめる。
「だからってよ……」
言いかけて、言葉を飲み込む。
止めても無駄だと、わかっているからだ。
ニチカだけが、少し遅れて口を開いた。
「……病気の龍って?」
率直な疑問。当然の問い。
ナギと老師が、同時に視線を交わす。
ほんの一瞬。
だが、その間に、いくつもの思考が交差した。
そして――二人そろって、渋い顔をする。
ナギが、頭をかく。
「……あー……」
老師が、静かに息を吐く。
どちらも、すぐには答えない。
答えられない、というよりは――簡単に答えるべきではないという判断。
やがて、老師が言った。
「そのうち、分かる」
短く。だが、重い言葉。
ナギも、肩をすくめる。
「まあ……そういうことだ」
歯切れは悪い。
だが、それ以上は踏み込まない。
ニチカは、二人の様子を見て、ふっと息を吐いた。
(なるほどね)
“ただの話じゃない”。
それだけは、はっきりとわかる。
だが――今は、それでいい。
無理に聞き出す気はなかった。
それよりも。ニチカは、腕に抱えたままのものへと視線を落とす。
巨大な魔石。
(……こっちの方が問題だな)
小さくため息をつく。
老師が、それをちらりと見て、口の端をわずかに上げた。
「良い土産を持ったな」
他人事のように言う。
ニチカは、苦笑した。
「笑い事じゃないんだけど」
ナギが横から覗き込む。
「いいじゃねえか、儲かるぞ?」
「その前に尋問される」
即答だった。
空気が、少しだけ緩む。
だがその奥で――ミアはすでに、次の場所へ向かう準備をしている。
病を抱えた龍のもとへ。
その“答え”は、まだ語られないまま。
静かに、夜の中で動き始めていた。




