第二十六話
最深層は、異様なほどに広かった。
崩れかけた神殿の面影を残しながらも、そこだけは“空間そのものが作り替えられた”かのように天井が高く、柱が林立している。床には古い紋様が刻まれ、踏みしめるたびにかすかに鈍い音を返す。
そして――それは、中央にいた。
巨大な影。
人の顔を持ちながら、獅子の体躯。筋肉の盛り上がりは常識を逸しており、ただそこに立っているだけで圧がある。背後でゆらりと揺れる蠍の尾は、光を受けて鈍く輝いていた。
マンティコア。
その顔が、にたりと歪む。人のようで、人ではない笑み。
喉の奥から、くぐもった笑い声が漏れ続けている。
「……成体だな」
ナギが低く呟く。
その声には、はっきりとした緊張が滲んでいた。
「ミア、諦めろ。やつに魔法は効かないぞ」
諭すように言う。
事実を、冷静に。この場で最も現実的な判断。
だが。ミアは、笑った。
「大丈夫!」
明るく、迷いなく。
そして――ぽん、とニチカの背を叩く。
「ここに物理攻撃最強君が居るじゃない?勝てるよ」
にこにこと。疑いなど一切ない瞳で。
ニチカは、ほんのわずかに目を細めた。(……言うと思った)
軽く息を吐く。呆れではない。
むしろ、どこか納得している。
目の前の相手を見る。
でかい。
単純な質量だけで、すでに脅威。
さらに、尾の毒。魔法耐性。そして知性。(厄介だな)
単純な力押しでは済まない。
だが――(まあ、いい)
剣を、わずかに構え直す。
両手のショートソードが、かすかに軋む。
そのとき。マンティコアの顔が、にたりと歪んだ。
「やめておけ、小さいダークエルフの子よ」
人の言葉。明瞭な発音。嘲りを含んだ声。
「実力差など、推し量るのも無駄だ」
くつくつと笑う。
その声は、空間に不快な響きを残す。
「取引をしないか?」
ナギの肩がぴくりと動く。ミアは、動かない。
「そこの白いチビ助を置いていけ」
空気が、凍る。
「……」
ニチカの視線が、すっと細くなる。
マンティコアは続ける。
「あの魔力量……ゴブリンなどとは比べものにならん」
舌なめずりするように。
「極上の餌だ」
笑い声が、低く広がる。
その瞬間。空気が変わった。
ナギが、一歩前に出る。
怒りが、はっきりと顔に出ている。
だが――それより早く。ニチカが、動いた。
すっと、前に出る。ミアの前に立つ形になる。
剣を構える。静かに。だが、明確に。
「……交渉は、決裂だな」
声は低い。冷えている。
先ほどまでの軽さは、完全に消えていた。
(ああ、そうか)
内心で、理解する。これはもう、“比較”の話ではない。
強いか弱いか。勝てるかどうか。
そんなことは、どうでもいい。
選択肢が消えた。
ミアを差し出す?論外だ。
「悪いけどさ」
ニチカは、ほんのわずかに口元を歪めた。
「それは、僕の評価が下がる」
商人として。人として。
そして――友達として。
マンティコアの目が、細くなる。
「愚かな」
尾が、ゆらりと持ち上がる。
ナギが低く構える。
「来るぞ……!」
ミアは、その背後で静かに立っている。
何も言わない。ただ、信じている。
ニチカは、一歩踏み出した。床が、わずかに鳴る。
その瞬間――戦いが、始まった。




