第二十一話
老師の庵は、相変わらず静かだった。
石壁に囲まれた空間は、外界から切り離されたように穏やかで、暖炉の火がぱちぱちと小さく爆ぜている。ほんのりと甘いミルクの香りが漂い、卓の上には湯気の立つ杯が並んでいた。
その平穏は――一瞬で壊れた。
「そうだ、ダンジョンへ行こう」
あまりにも唐突に、ミアが言った。
言葉は軽い。
まるで散歩の提案でもするかのように。
ぶふっ――!!
ナギが、盛大にミルクを吹き出した。
熱いそれが喉に逆流しかけ、げほげほと咳き込みながらテーブルに手をつく。
「っ……は!?お、おまっ……なに言って……!」
目を白黒させながら、必死に呼吸を整える。
ニチカは、一瞬遅れて反応した。
「……は?」
短く、間の抜けた声が出る。
理解が追いつかない。いや、言葉の意味はわかる。
だが――
この場で、その提案が出てくる理由がわからない。
老師は、やれやれと小さく息をついた。
呆れたように、しかしどこか慣れているように。
そして――ちらりと、ニチカを見る。
その目は語っていた。
「お前なら守れるな」
言葉にしない圧。逃げ場のない信頼。
ニチカは、ほんのわずかに目を細める。
(……なるほどね)
状況を理解する。
拒否権は、あるようでない。
「……急にどうしたの?」
それでも、問いは投げる。
聞かずにはいられない。
ミアは、にこにこと笑いながら立ち上がった。
ぱたぱたと奥へ走り、小さな本を抱えて戻ってくる。
植物図鑑だった。
年季の入ったそれを、ぱらぱらとめくる。
迷いはない。
目的のページを知っている手つき。
「これ」
指さした。
スノードロップ。
淡く月光を宿したような花。
夜にしか咲かず、触れれば消えてしまうほど繊細な素材。そして――高度な調薬に使われる、極めて貴重な材料。
ナギが、がんっとテーブルを叩いた。
「ばっか!!」
怒号。
完全に本気の声だった。
「知ってんだろ!?あそこのダンジョン、ボスめっちゃ強いんだぞ!?正気か!?」
身を乗り出す。
止めるために、言葉を叩きつける。
「なんのためにそんなもん必要なんだよ!?」
畳みかけるように続ける。
危険性。難易度。成功率。ありとあらゆる“やめる理由”を並べ立てる。
だが。
「ニチカがいるから大丈夫」
ミアは、あっさりと言った。
ナギの言葉を、まるで聞いていないかのように。
空気が、一瞬止まる。
ニチカは、目を瞬かせた。
(……僕?)
当然のように、自分が前提に組み込まれている。
しかも、絶対的な安全装置として。
ナギが固まる。
口を開けたまま、言葉を失う。
そして、ぎりっと歯を食いしばる。
「せ、め、て!」
一語一語、区切るように。
「なんの薬が作りたいのか教えなさい!」
ここだけは譲れないと、強く言い切る。
兄としての、最後の防衛線。
ミアは、一瞬だけ黙った。
図鑑のページを見つめたまま。
その表情から、さっきまでの軽やかさが、すっと消える。
そして――顔を上げた。
少しだけ、寂しそうに笑う。
「……病の龍を、助けたくて」
静かな声だった。だが、はっきりと届く。
空気が、変わる。
ナギの言葉が止まる。反論が、出てこない。
ニチカは、その言葉を受け止めた。
“病の龍”。
それが誰を指すのか。
あるいは、どれほどの存在なのか。
詳しくは知らない。
だが――ミアのその表情が、すべてを語っていた。
軽い思いつきではない。
気まぐれでもない。
決めている。
行くと。やると。助けると。
ニチカは、ゆっくりと息を吐いた。
そして、椅子の背にもたれかかる。
(……なるほど)
状況は理解した。
危険なダンジョン。高難度の素材。無茶な提案。
だが――(断る理由、ないな)
口元が、わずかに歪む。
「いいよ」
あっさりと、言った。
ナギが振り向く。
「はあ!?」
ニチカは、肩をすくめる。
「守ればいいんだろ?」
軽い調子。だが、その中身は本気だ。
ミアの顔が、ぱっと明るくなる。
「ほんと!?」
ニチカは、少しだけ笑った。
「友達なんだろ?」
それだけで、十分だった。
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。
その音が、どこか遠くの戦いの予兆のように、静かに響いていた。




