第二十話
夜は静かに降りていた。
森の外へと続く道は、昼間とは違う顔をしている。枝葉の隙間から覗く空は深い藍に染まり、ところどころに瞬く星が、遠い世界の存在を思い出させるようだった。
振り返れば、あの石造りの庵が小さく見える。
暖かな灯りが窓からこぼれ、夜の中にぽつりと浮かんでいる。
その前に、ミアが立っていた。
白いフードは被っていない。真珠色の髪が、夜の中で淡く光を受けている。小さな体で、めいっぱい腕を振っている。
「またねー!」
声が届く。
距離はもうあるはずなのに、不思議とよく響いた。
ナギの姿も、その少し後ろに見える。腕を組んで、あきれたように立っているが、完全に止める気はないらしい。
ニチカは、歩みを止めた。
ほんの一瞬。
そして、軽く手を上げて応じる。
それだけで十分だった。
再び歩き出す。
やがて木々が視界を遮り、灯りは見えなくなる。
完全に、切り離される。
それでも――胸の奥に、何かが残っていた。
ニチカは、無意識に手を当てる。
心臓のあたり。
さっきまで、確かにそこにあった温もりを確かめるように。
(……ああ)
小さく息を吐く。
そして、ほんのわずかに笑った。
こんな感覚は、初めてだった。
何かを手に入れたわけではない。利益があったわけでもない。
それでも――
確かに“満たされている”。
隣を歩くシレンが、ふと足を止めた。
気配が変わる。
先ほどまでの穏やかな余韻は、すっと引いていく。
代わりに現れるのは、見慣れた“商会長”の顔。
鋭く、無駄のない視線。
感情を切り分け、必要なものだけを残す、あの男の目。
「ニチカ」
低く呼ばれる。
ニチカは、自然に視線を向けた。
「あの方たちについては、他言無用だ」
短い。だが、余地はない。
命令ではない。
確認でもない。
決定事項。
ニチカは、わずかに目を細める。
(やっぱりな)
何も知らないわけではない。
あの場で起きていたこと。
シレンの反応。
老師の在り方。
ミアの歌。
どれを取っても、ただ事ではない。
事情がある。
それも、かなり深いものが。
だが。
ニチカは、静かに頷いた。
「わかってるよ」
あっさりと答える。
そこに迷いはない。
商人は、約束を破らない。
それは信念ではなく、前提だ。
約束を守ることが、そのまま価値になる。
信用は、何よりも重い資産。
それを損なう行為は、自分の評価を落とすことと同義。
そして――もうひとつ。
(約束したしな)
ミアと“友達になる”と。
その言葉は軽かった。
だが、軽いからといって無価値ではない。
むしろ――
彼にとっては、これまでのどんな契約よりも曖昧で、だからこそ重い。
シレンは、そんなニチカを一瞬だけ見た。
その目は、何かを測るようでもあり、すでに答えを知っているようでもあった。
そして、わずかに息を吐く。
「……友として関わる分には、許可を出そう」
その言葉は、静かだった。
だが――
異例だった。
ニチカの眉が、ほんのわずかに動く。
(……へえ)
内心で驚く。
制限されると思っていた。
関与を禁じられる可能性すらあった。
だが、違った。
許可。
しかも、“友として”という形で。
それは、シレンにしてはあまりにも優しい譲歩だった。
ニチカは、ちらりと横目で祖父を見る。
その横顔は、すでにいつもの冷静さを取り戻している。
だが――完全ではない。
ほんのわずかに、残っている。
あの庵で見せた、柔らかな何かが。
(……そんなにか)
思う。
(そんなに、あの子が可愛いのか)
否定はしないだろう。
むしろ、隠しもしないはずだ。
ニチカは、小さく笑った。
「太っ腹だね」
軽く言う。
シレンは、視線を前に戻したまま答える。
「例外は、時に必要だ」
それだけ。
だが、その“例外”がどれほどの意味を持つかを、ニチカは理解している。
夜の道を、ふたりは並んで歩く。
言葉は少ない。
だが、沈黙は重くない。
ニチカは、もう一度だけ胸に手を当てた。
あの温もりは、まだ残っている。
(……次は、何して遊ぶかな)
そんなことを考えている自分に、少しだけ呆れながら。
それでも、その思考を否定はしなかった。
夜は深く、静かに続いていく。
だがその先に、確かに“次”があると、彼は疑っていなかった。




