第十九話
ポロロロン、ポロン――
静かな余韻の残る食卓に、やわらかな音が落ちた。
ミアの膝の上には、小さな竪琴がある。彼女の体格に合わせて作られたそれは、まるで最初から彼女の手の中にあることを前提に生まれたかのように馴染んでいた。
細い指が弦に触れる。
ひとつ、弾く。
また、ひとつ。
音を確かめるように、丁寧に、しかし迷いなく。
調律は、ただの作業ではなかった。それは“空気を整える行為”のようでもあった。
弦の震えに合わせて、この庵の内側の何かが静かに揃っていく。
ナギは椅子の背もたれに体を預け、苦笑を浮かべた。
「……大盤振る舞いだな」
その声音には、呆れと、それ以上のものが混じっている。
ミアは、顔も上げずににこにこと笑う。
「だって、今日は特別な日だからね」
軽やかに言う。
だがその“特別”が何を指しているのか、明言はしない。
それでも、誰もがなんとなく理解している。
再会。出会い。そして、こうして同じ卓を囲んだこと。
どれを取っても、二度と同じ形では訪れない一日だ。
ニチカは、その様子を見ていた。
食事が終わり、そろそろ席を立つ流れになると思っていた。
自分は帰るのだと。
この時間も、ここまでなのだと。
そして――それを、少しだけ残念に思っている自分に気づいていた。(……いや、顔に出てないよな)
内心でわずかに焦る。
感情を表に出すことには慣れていない。
それを見抜かれるのは、あまり好ましくない。
だが、ちらりと周囲を見ると――
どうやら違った。
顔に出ていたのは、自分ではない。
シレンだった。
ほんのわずかに。
だが確かに、“終わり”を惜しむ色が浮かんでいる。
ニチカは、目を瞬かせる。
(……あの人が?)
驚きは隠せない。
だが、それを深く考える前に――ミアが顔を上げた。
にっこりと、笑う。
その笑顔は、何かを決めた後のものだった。
ふたり――ニチカとシレンへと向けられる。
言葉はない。
だが、それで十分だった。
次の瞬間、音が変わる。
ポロン。
それまでの調律の音とは、明らかに違う一音。
始まりの合図。
ミアの指が、滑る。
弦を撫でるように、連ねる。
重なり合う音が、空間に広がっていく。
聞いたことがない旋律だった。
どの世界の音楽とも違う。
規則はあるようで、ない。
だが、乱れてはいない。
不思議な均衡の上に成り立っている。
そして――
ミアが、歌い出す。
声は、細い。
だが弱くはない。
透明で、繊細で、それでいて輪郭がはっきりとしている。
どれだけ離れていても、きっと届く。
そんな確信を持たせる響き。
言葉は、知らないものだった。
どの言語にも当てはまらない。
意味を理解することはできない。
それでも――伝わる。
音が、感情を運んでくる。
懐かしさ。哀しみ。あたたかさ。そして、どこか遠くへ続く祈りのようなもの。
ナギは、動かない。
いつもなら何か言うはずなのに、ただ静かに聞いている。
その目は、どこか遠くを見ているようで、同時に今この瞬間を強く捉えている。
シレンは、完全に息を止めていた。
瞬きすら忘れたように、ただミアを見ている。
その瞳に宿るのは、驚きでも、感動でも足りない。
もっと深い――
“知っている”という感覚。
過去に、この歌を。あるいは、この“在り方”を。
確かに知っている者の目。
老師は、目を閉じていた。
微かに頷く。
それは、評価ではない。
確認だ。“間違いなく、そこに至っている”という。
そして、ニチカ。
彼は、初めてだった。
何かを“値踏みしない”で受け取るのは。
(……なんだ、これ)
思考が追いつかない。
分析しようとしても、意味を持たない。
構造を掴もうとしても、すり抜ける。
ただ――胸の奥に、直接届く。
言葉にならない何かが、静かに満ちていく。
それは圧倒ではない。支配でもない。
もっと穏やかで、もっと確かなもの。
(……敵わないな)
ふと、そんな考えが浮かぶ。
どんな芸術も。どんな技巧も。どれだけ積み重ねたものでも。
この歌には、届かない。
理由はわからない。
だが、確信だけはある。
音が、空間を満たす。
暖炉の火が、静かに揺れる。
外の冷たい空気も、遠くの世界も、すべてが切り離されていく。
ただ、この場所だけが残る。
ミアの歌と共に。
それは、誰も知らない歌だった。
だが同時に――
誰もが、どこかで知っているような歌でもあった。




