第十八話
暖炉の火が、ゆっくりと部屋の空気を撫でていた。
ぱちり、と小さく弾けるたびに、柔らかな音が食卓の上に落ちてくる。石造りの壁は外の冷えを遮り、内側にはじんわりとした温もりが満ちている。窓の外はまだ春の気配が浅く、冷たい空気が残っているはずなのに、この庵の中だけはまるで別の季節のようだった。
食卓には、素朴な料理が並んでいる。
焼いたばかりのパン。香草を添えた温かなスープ。野菜と肉をやさしく煮込んだ一皿。そして、淡い色の果実水。
どれも特別に豪華なものではない。
だが――
「……相変わらずの見事な腕前でございますな、魔女さま」
シレンが、穏やかに笑いながら言った。
その声音は、商談のときのそれとはまるで違う。角が取れ、どこか懐かしむような響きがある。
ミアは、にこにこと笑う。
「でしょ?」
誇るでもなく、ただ嬉しそうに。
そのやり取りを見て、ニチカは内心でわずかに息を吐いた。
(……本当に、別人みたいだな)
目の前にいるのは、草薙商会長シレンだ。
間違いなく、あの男だ。
だがその表情は――祖父としての顔ですらない。
もっと柔らかく、もっと個人的で、もっと“近い”。
まるで、ずっと昔から知っている誰かに向けるような、そんな笑い方。
ミアを見つめるその目には、隠しきれない“情”が滲んでいる。
それは溺愛と呼んでも差し支えないほどで――
ふとした瞬間、ニチカは思う。
(……どっちが血縁だ?)
自分なのか、彼女なのか。
わからなくなるほどに。
そんな祖父の顔を、彼は一度も見たことがなかった。
だが。
理由は、すぐに理解できた。
口に運ぶ。
温かい。優しい。
そして――驚くほど、美味い。
派手な味ではない。
舌を驚かせるような技巧もない。
だが、ひと口ごとに、じんわりと身体に染み込んでいく。
素材の味が、無理なく引き出されている。
火の通し方。塩の加減。香りの重ね方。
すべてが、過不足なく整っている。
ニチカは、ほんのわずかに目を伏せた。
(……こっちの方が、いいな)
普段口にする料理は、もっと洗練されている。
腕のいいシェフが作る、完璧に計算された皿。
だが――それとは別のものが、ここにはあった。
温度。空気。そして、作る者の“手”。
それらすべてが、ひとつの味になっている。
幸せの味。
ふと、そんな言葉が浮かぶ。
自分がそんなことを考えるとは思わなかった。
「おかわり、たくさんあるからね!」
ミアが、明るく言う。
すでに立ち上がっている。
空になった器を見つけては、自然な動きでそれを満たしていく。
パンを足し、スープを注ぎ、皿を整える。
そして、果実水。
空になった杯を見つけると、軽やかに継ぎ足して回る。
その動きは無駄がない。
どこで覚えたのか、見事な給仕ぶりだった。
ナギが苦笑する。
「お前、ほんとに何でもできるな」
ミアは肩をすくめる。
「だって、やったほうが早いもん」
当たり前のように言う。
シレンは、その様子を目を細めて見ていた。
どこか懐かしむように。
そして、確信を深めるように。
ニチカは、杯を受け取る。
ミアが注いだ果実水。
淡い色の液体が、光を受けて揺れる。
「はい、ニチカ」
「ありがとう」
短く言葉を交わす。
それだけのことなのに、妙に意識に残る。
ニチカは一口飲む。
甘すぎず、さっぱりとしている。
喉を通る感覚が、やけに心地いい。
視線を上げる。
食卓の向こう。
祖父がいる。
老師がいる。
ナギがいる。
そして、ミアがいる。
それぞれが、同じ空間で、同じものを口にしている。
あり得ない組み合わせ。
成立するはずのない時間。
(……なのに)
不思議と、違和感がない。
むしろ、しっくりとくる。
暖炉の火が、また小さく弾ける。
その音に混じって、ミアの笑い声が響く。
ナギが何か言い返し、シレンが穏やかに笑う。
老師は静かにそれを見ている。
ニチカは、ゆっくりと息を吐いた。
胸の奥に、静かな満足が広がっていく。
(……悪くない)
いや。
かなり、いい。
そんなことを思いながら、彼はもう一口、温かなスープを口に運んだ。




