第十七話
転移の光が静かにほどけたとき、そこにあったのは、驚くほど静かな空間だった。
森のざわめきも、境界の揺らぎもない。世界の継ぎ目から切り離されたような、穏やかな“内側”。
老師の庵は、こぢんまりとしていた。
だが、その小ささは貧しさではない。むしろ、必要なものだけを選び抜いた結果としての簡潔さ。石造りの壁は白に近い淡い灰色で、触れればひんやりとしていそうな質感を持ちながら、どこか柔らかな印象を与える。継ぎ目は滑らかで、無骨さはない。ひとつひとつが丁寧に積まれ、長い時間をかけて整えられたことがわかる。
中に入ると、ぱちぱちと小さく火が爆ぜる音がした。
暖炉だった。
春先とはいえ、外気はまだ冷たい。石の建物の内側に溜まったわずかな冷えを、ゆっくりと溶かしていくような火の温もりが、部屋全体に広がっている。
炎は大きくない。だが、十分だった。
光は柔らかく、影は深すぎない。
そこにいる者の輪郭を、穏やかに浮かび上がらせる。
ニチカは、わずかに目を細めた。
(……いいな)
無意識に、そう思う。
彼が普段いる場所は、もっと広く、もっと華美だ。
宮殿のような建物。高い天井。磨き上げられた床。人の気配は常に多く、音は絶えない。使用人、護衛、商人、客人――様々な思惑が交錯し、空気は常に“動いている”。
だがここは違う。
静かだ。
必要以上のものがない。
そして何より――
居心地がいい。
それは、ニチカにとって少しだけ新鮮な感覚だった。
後ろから、ゆっくりと足音が入ってくる。
シレンだった。
先ほどまでの崩れた様子は、すでに整えられている。涙の跡も消え、姿勢も戻っている。いつもの、隙のない商会長の顔。
だが――
完全ではない。
目の奥に、まだ残っている。
長い時間を越えた再会の余韻が。そしてそれを、ニチカは見逃さない。
(……珍しいな)
心の中で呟く。あの男が、ここまで感情を表に出すのは。
草薙シレン。
ダークエルフである彼は、かつて多くの忌避と敵意の中で生きてきた。
“邪悪なる者”。
そう呼ばれる種族。だが、彼はそれを力で覆した。商会を立ち上げ、築き、広げた。
金を動かし、情報を掌握し、人を束ねる。
やがてその規模は、国家すら無視できないほどに膨れ上がる。
いまや――表立って敵対する者はいない。いたとしても、結果は見えている。
経済的に干上がるか、情報で潰されるか、あるいは物理的に消されるか。
どの道を選んでも、行き着く先は同じ。
抹殺。
財力とは、時に暴力になる。
それを最も正確に理解し、使いこなしている男。
それがシレンだった。
そして同時に――彼は、巨大な“家”の頂点でもある。
妻は五十人。
子や孫を含めれば、その数は百を優に超える。
血縁だけで構成された、一つの“群れ”。ニチカもまた、その中のひとりだった。数多いる孫の中の一人。
だが――ただの一人ではない。抜きん出た存在。
それでもなお、“家族”であることに変わりはない。
だからこそ。今の状況は、異常だった。同じ空間にいる。
それだけならまだいい。だが――同じテーブルに、着こうとしている。
「ほら、座って座って」
ミアが軽やかに言う。すでに席を用意している。
いつの間にか、簡素だが整った食卓が整えられていた。木のテーブルに、人数分の椅子。素朴だが温かみのある器。
ナギは慣れた様子で腰を下ろす。
老師も、静かに席に着く。
ミアは当然のように、その間に入る。
そして――空いている席を、ぱんぱんと叩く。
「ニチカ、ここ」
無邪気な声。迷いがない。
ニチカは、ほんの一瞬だけ足を止めた。
(……同じ席、か)
祖父と。商会長と。同じ卓を囲む。
それがどれほど“特別”なことか、彼はよく知っている。これまで、そんな機会はほとんどなかった。必要がなかったからだ。
立場が違う。役割が違う。
距離は常に保たれていた。
だが今は違う。
理由は、ひとつ。
ミアが、そこにいるからだ。
ニチカは、静かに椅子を引いた。音を立てない。自然な動作で腰を下ろす。視線を上げると、向かいにシレンがいる。
一瞬だけ、目が合う。
その視線には、いつもの冷静さがある。
だが同時に――ほんのわずかな“認識”が混じる。
数ある孫としてではない。
ひとつの“個”として見られている感覚。
ニチカは、それを正面から受け止める。逸らさない。そして、ほんのわずかに口元を緩める。シレンもまた、何も言わない。
だが、その沈黙がすべてを物語っていた。
ミアが、ぱんと手を叩く。
「いただきます、でいいんだよね?」
確認のようでいて、すでに始める気満々の声音。
ナギが苦笑する。
「合ってるよ」
老師は静かに頷く。
シレンも、わずかに目を伏せる。
そして――
「……いただきます」
ニチカは、初めてその言葉を、こんな形で口にした。
暖炉の火が、ぱちりと弾ける。その音が、やけに心地よく響いた。




