第四十七話
それは、本当に微かな音だった。
耳で聞くというより、肌で感じるような。
閉ざされた空間の奥。均され、沈められた風の底から、かすかに震える気配。
ミアは静かに祭壇を見つめたまま動かない。
司祭もまた、沈黙を保っている。
だがユエリーだけは、その空気の変化に明確に反応していた。
紅玉と青玉の瞳が細められる。
龍の感覚は誤魔化せない。
生き物がいる。
あの宝珠の奥に。
削られ、押さえ込まれ、薄められながらも、まだ消えていない何か。
ミアはゆっくりと祭壇へ歩み寄った。
石床に靴音が落ちる。
ひとつ、またひとつ。
司祭は止めない。
その代わり、静かに問いかけた。
「……何を感じますかな」
試すような声音。
ミアは宝珠を見上げる。
淡い光。規則正しい脈動。
その内側で、風が眠らされている。
「苦しそう」
ぽつりと、そう言った。
司祭の笑みがわずかに止まる。
ミアは続けた。
「眠ってるみたい。でも、本当は起きていたいんじゃないかな」
宝珠の光が、また揺れた。
今度は先ほどよりも明確に。
高窓から差し込む光がわずかに歪み、神殿の中を一陣の風が抜ける。
ほんの一瞬。
完全に制御されたはずの空間で起きた、乱れ。
司祭の杖を持つ手が、かすかに強ばる。
「……おやめなさい」
初めてだった。
柔らかい調子を崩したのは。
ミアは振り返らない。
ただ宝珠を見つめたまま、小さく息を吐く。
「やっぱりいるんだね」
答えは返らない。
だが沈黙が、何より雄弁だった。
ユエリーの気配がさらに鋭くなる。
この神殿そのものが、巨大な檻だ。
風を利用し、均し、循環させ、街の安定を支えるための。
だがそれは同時に、意志を奪う行為でもある。
司祭はゆっくりとミアへ歩み寄った。
「貴女は優しいお方だ。しかし、優しさだけでは街は守れません」
静かな声。
「人は秩序を必要とする。気まぐれな奇跡ではなく、保証された安定を求めるのです」
ミアはようやく振り返った。
ローブの奥、藍の星眼が静かに司祭を見る。
「でも」
一歩も引かないまま。
「それって、生きてるって言えるのかな」
その瞬間。
宝珠の内側で、風が大きく脈打った。
ビキ――
極小の音。
表面に、髪の毛ほどの細い亀裂が走る。
司祭の顔から、初めて完全に笑みが消えた。
神殿全体の空気が張り詰める。
整えられていた風が、一瞬だけ制御を失い渦を巻く。
ローブの裾が揺れ、祭壇の燭台の火が激しく震えた。
その中心でミアは立っている。
歌っていない。
何もしていない。
ただ、呼ばれただけ。
閉じ込められた風に。




