第四十八話
ビキ、と。
今度は誰の耳にも届くほど、はっきりと音が鳴った。
祭壇の空気が震える。
均されていた風が乱れ、神殿中を駆け巡った。高窓の色硝子がかたかたと鳴り、燭台の火が大きく揺らめく。
司祭は即座に杖を掲げた。
「鎮まりなさい」
低く、重い声音。
それは祈りというより命令だった。
杖の先端が淡く光り、神殿中に刻まれた術式が反応する。
床。柱。天井。
白い大理石に埋め込まれた見えない紋様が淡く浮かび上がり、暴れかけた風を再び押し留める。
だが――完全には戻らない。
風はなお、祭壇の周囲でざわついている。
まるで、長い眠りから覚めようと足掻くように。
ミアは静かに宝珠を見上げた。
細い亀裂。
そこから漏れる風は、先ほどまでとは違う。
冷たくも、均一でもない。
感情を持った風。
喜びと、焦燥と、渇望が入り混じったような。
ユエリーが一歩前に出る。
その身体が自然とミアを庇う位置を取った。
司祭の視線が鋭く向く。
「……これが何を意味するか、お分かりですかな」
先ほどまでの穏やかさは薄れていた。
代わりに滲むのは焦り。
ミアは答えない。
風が彼女のローブを揺らす。
まるで、縋るように。
司祭は杖を握りしめた。
「この街は百年以上、この仕組みで保たれてきたのです」
静かな声。
だが、その内側には切実さがある。
「水も、農地も、人々の暮らしも。すべては風の安定によって支えられている」
宝珠の中で、再び風が脈打つ。
司祭は続けた。
「精霊は強大です。気まぐれで、感情的で、人とは時間の流れも違う。共存など理想論に過ぎない」
ミアはようやく小さく口を開いた。
「だから、閉じ込めた?」
「必要だったのです」
即答だった。
迷いのない返答。
「暴風で村が消えたこともある。日照りで何百という命が失われたこともある。奇跡とは、常に平等ではない」
その言葉には現実があった。
長い年月。犠牲。恐怖。
理想だけでは守れなかった人々。
だからこの神殿は生まれた。
精霊を管理し、恵みだけを抽出するために。
ミアは黙って聞いている。
そして、ぽつりと呟いた。
「……でも、この子は泣いてるよ」
その瞬間。
ゴウッ――!
祭壇から突風が吹き荒れた。
宝珠の亀裂がさらに広がる。
白い光が溢れ、神殿中に風が満ちる。
今まで感じたことのない、生きた風。
歓喜。怒り。悲しみ。
抑圧され続けた感情が、一気に噴き出す。
司祭が顔を歪めた。
「まずい――!」
術式が軋む。
均衡が崩れ始めていた。
その中心で、ミアは一歩前へ出る。
ローブの奥から、静かに竪琴を取り出した。
ユエリーが名を呼ぼうとする。
だがミアは振り返らない。
彼女の星眼は、ただ宝珠の奥を見つめている。
閉じ込められた風の精霊を。
「……大丈夫」
小さく、そう告げた。
それが誰に向けた言葉だったのかは、誰にも分からない。




