第三十七話
「おはようございます、領主さま」
ミアはローブの奥でわずかに頭を下げ、昨晩と同じ席にユエリーと並んで腰を下ろした。
大きく取られた窓からは、朝の光がまっすぐ差し込んでいる。高所にあるこの食堂は風をよく通し、軽やかな空気が常に流れているはずだったが――今はどこか均質で、整えられすぎた静けさがある。
風はある。だが、触れてこない。
その違和感を、ミアは言葉にせず飲み込んだ。
対面に座るアルヴェリオは、相変わらず柔らかな笑みを浮かべている。
「お待たせしてしまいましたか?」
「起こしてしまったなら申し訳なかったね、朝は鍛錬で早いものだから」
軽やかな応酬。
しかしその奥に、互いに探るような気配がある。
ミアは小さく首を横に振った。
「いいえ」
短く、それだけ。
余計なことは言わない。
言葉は少ないほど、相手の出方が見える。
「それで、今日も歌いに行くのかい?」
問われて、ミアは頷いた。
ゆっくりと、今度は縦に。
「はい」
それ以上の説明はしない。
だが沈黙は続かず、ミアの方から視線を外し、窓の外へと向けた。
遠くに見える風車群。
規則正しく回り続ける羽根。
その動きに合わせて、街の機能が保たれている。
「この都市は、風車によって汲み上げられた水を水路に通して街に行き渡らせ、農業や生活用水に用いているのですね」
何気ない観察の形を取りながら、核心へ触れる。
アルヴェリオは一瞬だけ目を細めた。
「……ああ」
わずかな間のあと、頷く。
「風の恩恵によるところは大きい。周辺には小さな湧き水や小川しか無かっただろう?元々水源に乏しい土地なんだ」
言葉は事実だ。
だが同時に、それは依存の告白でもある。
ミアは頷いた。
「なるほど、風があってこその街ということですか」
「その通りだ」
アルヴェリオは肯定しながら、ほんのわずかに視線を落とした。
「小規模な神殿ならあるのだが、起こせる奇跡は限られている」
その言葉の響きに、わずかな重みが混じる。
奇跡に頼りきることはできない。
だからこそ、風に頼る。
そして今――
その風が、どこかおかしい。
ミアはパンに手を伸ばしながら、何気なく問いを重ねた。
「では、その風がもし――思うように働かなくなったら?」
問いは柔らかい。
だが、逃げ場のない形をしている。
アルヴェリオの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
ナイフとフォークが皿の上でかすかな音を立てる。
「……困るだろうね」
軽く笑って見せる。
だがその笑みは、昨晩よりわずかに浅い。
「だからこそ、安定させる必要がある」
安定。
その言葉に、ミアは小さく目を細めた。
整えられた風。
制御された流れ。
それは確かに便利で、安全で、正しい。
けれど――
「安定していることと、生きていることは、同じではないですよね」
ぽつりと落とされた言葉は、あまりにも静かだった。
ユエリーの視線が、わずかにミアへと向く。
アルヴェリオは答えない。
答えずに、ミアを見た。
レースに隠れたその顔を、値踏みするようにではなく――測るように。
その沈黙の中で、風だけが、規則正しく窓辺を通り過ぎていく。
ミアは何も言わない。
ただ静かにパンを口に運び、いつも通りの朝の所作を崩さない。
けれどその内側では、すでに次の一手が組み上がっている。
ここは、風の都。
そして今、その風は――
誰かが整えているのだろうか。




