第三十五話
花の匂いが、やわらかく満ちていた。
どこからか運ばれてきた朝の気配が、閉ざされたはずの室内にも静かに入り込んでいる。風の都らしい、気配の抜け方だった。
ミアはその匂いを無意識に吸い込み、小さく身動ぐ。
まだ夢と現の境目にいるような感覚のまま、意識だけがゆっくりと浮かび上がってくる。
頭に触れる感触。
やさしく撫でる手。
その一定のリズムに気づいて、重い瞼を少しだけ持ち上げた。
ぼやけた視界に、誰かの輪郭が映る。。
近くにある顔。
見慣れた線。
焦点が合っていくにつれて、それがはっきりとユエリーのものだと認識される。
「……おはよ、ユエリー」
声はまだ眠りを引きずっていて、わずかにかすれていた。
ユエリーは何も言わない。
ただ、いつもと同じように髪に触れている。
指だけで、流れを整えるように。
その手つきは静かで、丁寧で、どこまでも穏やかだった。
昨夜のことが、ふと頭の奥をかすめる。
触れた温度。
近すぎた距離。
けれどそれを言葉にするほどでもなく、ミアは何も言わない。
ただ、そのまま目を閉じかける。
指が髪を梳くたびに、意識がまたゆるく沈んでいく。
このまま、もう少しだけ――
そう思ったところで。
控えめな音が、静けさを割った。
――コン、コン。
扉を叩く、遠慮がちなノック。
現実が、戻ってくる。
ミアの瞼がわずかに震えた。




