第三十三話
「髪を乾かせ、風邪をひく」
低い声が落ちてきて、ようやくミアは顔を上げた。
いつの間にか、ユエリーが戻ってきている。
気配には気づいていたはずなのに、意識の奥に沈めたまま、ページをめくる手を止めなかったらしい。
肩に触れる空気が、ひやりとしている。
視線を落とせば、白い布の上に薄く滲んだ湿り。
「……あ」
間の抜けた声が、ぽつりと零れた。
「……仕方の無い娘だ」
呆れとも、諦めともつかない声音。
すぐに、乾いた布が肩にかかる。
やさしく押さえられ、水気が丁寧に吸い取られていく。
ミアは抵抗しなかった。
されるがままに、聖典に手を置いていた。
布が離れると、今度は指先が髪に触れる。
櫛が通る。
絡まりをほどくように、ゆっくりと。
乱暴さは一切ない。
むしろ、過剰なほどに丁寧で、慎重で。
一本一本を確かめるような手つき。
指先から伝わる穏やかな熱に、髪の湿り気が少しずつ消えていく。
風ではない。
けれど、どこか似ている。
一定の温度で、均一に。
ミアは視線を落としたまま、小さく息を吐いた。
「……読んでただけなのに」
言い訳のような呟き。
ユエリーはそれに答えない。
ただ、手を止めずに続ける。
櫛が最後まで通ると、指先で軽く整える。
その仕上げまで、抜かりはない。
「これでいい」
短く言う。
まるで当然の義務を果たしただけのように。
ミアはようやく本を閉じた。
ぱたり、と音が小さく響く。
少しだけ首を傾ける。
乾いた髪が、軽く揺れた。
「……ありがとう」
振り返らずに言う。
その声音は、いつもよりわずかに柔らかい。
ユエリーは何も答えなかった。
だが、その沈黙は拒絶ではない。
ただ、そこにいるだけで十分だというように。
部屋の中には、再び静けさが落ちる。
けれど先ほどとは違う。
わずかに、温度のある静けさだった。




