第三十二話
「……また着てる」
戻ってきたミアを見て、ユエリーは眉をひそめた。
湯気の余韻がまだ残る室内で、白い旅装束だけが妙に現実的に整っている。ほどいたはずの結び目はすでに元通り、隙のないかたちで彼女の身体を包んでいた。
「当然でしょう?」
ミアは髪先の水気を払いつつ、何でもないことのように言う。
「お風呂先にありがとう。お次どうぞ」
手で浴室の方を示す。その仕草は気安く、いつもの調子そのままだった。
ユエリーは一瞬だけ言葉を失う。
納得していないのは明らかだったが、強く言い返すでもない。ただその不満が、視線のわずかな鋭さに滲む。
ミアはそれを受け止めながらも、あえて触れなかった。
便利なのだ。
それなりに手入れをすれば清潔は保てるし、着替えの手間も省ける。この装束は守りであり、同時に効率でもある。そこに余計な感情を差し挟む理由はない。
ユエリーは小さく息を吐き、やがて踵を返した。
浴室の扉が閉まる。
静寂が戻る。
ミアはその場に立ったまま、ほんのわずかに気を緩めた。
それから机に向かい、時の聖典を取り出す。
表紙に触れると、ひやりとした感触が指先に残る。
開く。
意識を向ける。
アルヴェリオ。
その名を思い浮かべた瞬間、ページの上に淡く文字が浮かび上がる。
風の都エアリアルを治める家門。
シルフィードの名。
精霊と共にあるという思想。
断片的な情報が、流れるように連なっていく。
読み進めるうちに、ただの統治者ではないことがはっきりしてくる。
精霊との均衡を守ることを、家門の務めとして掲げている。
街そのものが、風と人と精霊のあいだに成り立つ微妙な釣り合いの上に築かれている。
そして――その中心にいるのが、あの男。
ミアはページをめくる手を止めた。
思い返す。
晩餐でのやり取り。
言葉の選び方。沈黙の置き方。視線の運び方。
あれは偶然ではない。
すべて意図されたもの。
測られていた。
そして同時に、試されてもいた。
「……厄介だな」
小さく呟く。
けれど、その声音に重さはない。
むしろ、わずかに思考が澄んでいく感覚があった。
知らなければ対処できない。
知れば、選べる。
そのための準備として、この時間は無駄ではない。
再び視線を落とし、聖典を読み進める。
外では風が鳴っている。
この街の中心で、誰にも知られず、もう一つの流れが静かに動き始めていた。




