第十五話
森の奥、光の届きにくい場所に、ふたりは立っていた。
木々の影が幾重にも重なり、そこだけ時間の流れが緩やかになったような空間。風は吹いているはずなのに、枝葉はほとんど揺れない。音が吸い込まれていくような、静けさ。
その中心に、“老師”と呼ばれる老人はいた。
灰色の衣。無駄のない佇まい。特別に威圧するわけでもないのに、そこにいるだけで周囲の輪郭が引き締まる。存在が空間を定義してしまうような、そんな種類の重さを持っている。
シレンは、その前に立っていた。
いや――正確には、立っていられなかった。
「……あなたが……」
声が震える。抑えようとしても抑えきれない。
「あなたが、ここに……」
言葉が途切れる。
商会長としての顔は、そこにはない。
ただのひとりの人間が、目の前の存在に向き合っている。
老師は、静かに彼を見ていた。
表情はほとんど動かない。だが、その視線は冷たくはない。むしろ、長い時間を知っている者だけが持つ、穏やかな深さがあった。
「久しいな、シレン」
低く、落ち着いた声。
それだけで、シレンの身体が崩れた。
距離を詰める。
そして、ためらいもなく――しがみついた。
「……っ……」
言葉にならない声が漏れる。
肩に顔を押し付けるようにして、ただ必死に掴む。
その姿は、商会長ではなかった。
長い時間を耐え抜いてきた者が、ようやく帰る場所に辿り着いたときの、それだった。
「……生きて……」
息を詰まらせながら、言葉を探す。
「生きて、おられたのですね……」
涙が落ちる。
抑えようともしない。
誇りも、立場も、その瞬間には意味を持たなかった。
老師は、わずかに肩を揺らしたが、拒むことはしなかった。
ただ静かに、そのまま受け止める。
「簡単には、死なんさ」
短く言う。
それは事実の確認のようなものだった。
だが、その言葉の裏にあるものを、シレンは理解している。
だからこそ、余計に涙が止まらない。
「……ずっと……」
掠れた声。
「ずっと、お待ちしておりました……」
老師は、それに答えない。ただ、ほんのわずかに目を細める。
それだけで十分だった。長い沈黙が流れる。
だがそれは、気まずさではない。
積み重なった時間が、ようやく繋がった静けさだった。
一方で、少し離れた場所では、まったく別の時間が流れていた。
ミアは、地面に座り込んでいた。
周囲に咲いていた小さな花を摘み、ひとつひとつ丁寧に編んでいく。指先は器用で、迷いがない。慣れているのか、それとも感覚でやっているのか、形はすぐに整っていく。
「できた」
小さく呟いて、立ち上がる。
最初に狙われたのは、ナギだった。
「ほら」
ぽす、と。
何の前触れもなく、頭に乗せる。
ナギは一瞬固まる。
「……は?」
手を伸ばしかけるが、ミアはすでに一歩引いている。
「似合ってるよ」
くすくすと笑う。ナギの眉間に皺が寄る。
「似合うかこんなもん!」
反射的に言い返すが、完全に取り払うことはしない。
そのまま、少しだけ視線を逸らす。
ミアは満足げに頷く。
「うん、いい感じ」
そして、次の標的に視線を移す。
ニチカだった。
「ニチカも」
言うが早いか、距離を詰める。
ニチカは避けない。避ける理由がない。ただ、何が来るのかは理解している。花冠が、そっと頭に乗せられる。銀の長髪に、色とりどりの小さな花が混じる。その光景は、妙に整っていた。
整いすぎているがゆえに、逆に違和感がない。
ミアは少し下がって、それを眺める。
「うん、やっぱり似合う」
素直な評価。
ニチカは、わずかに目を瞬かせる。
(……まあ、悪くないか)
そんなことを思っている自分に、少しだけ驚く。普通なら外す。意味のない装飾だ。だが、今はそのままでいいと思った。ナギが横からぼそりと言う。
「……外せよ」
「なんで?」
即答だった。
「いや、普通外すだろ」
「別に困ってないし」
軽く肩をすくめる。
ナギは呆れたように息を吐く。
「お前らほんと……」
言いかけて、やめる。
何を言っても無駄だとわかっている顔。
ミアは、ふたりを交互に見て、満足そうに笑う。
「いいね、仲良し」
その言葉に、ナギが即座に反応する。
「仲良くねぇ!」
ニチカは、少しだけ笑った。
否定はしない。肯定もしない。
ただ、そのやり取りを受け入れている。
遠くで、シレンの声がまだ続いている。
抑えきれない感情が、途切れ途切れに溢れている。
老師はそれを受け止めながら、静かに言葉を返している。長い長い時間を埋めるような、ゆっくりとした対話。
その重さと、こちらの軽やかさ。
まるで別の世界の出来事のように、同時に存在している。
ニチカは、その両方を見ていた。
過去に膝を折る商会長と、未来を無邪気に編む少女。
その間に立っている自分。頭には花冠。
場違いなはずのそれが、なぜかしっくりとくる。
(……ほんとに)
心の中で、静かに思う。
(とんでもないところに来たな)
だが、その感覚は嫌ではない。むしろ――少しだけ、笑いたくなる。ミアがまた花を摘み始める。ナギがそれを見てため息をつく。
遠くで、シレンの声が揺れる。
そして老師は、ただそこにいる。すべてが同時に存在しているこの時間が、妙に確かなものとして、そこにあった。




