第十四話
その森は、子どもが遊ぶには少しだけ静かすぎる場所だった。
木々は高く、枝葉は空を細く切り取り、光はまるで選ばれたものだけが落ちてくるように斑に地面を照らしている。風が吹けば葉擦れの音はする。だがその音さえ、どこか遠く、別の層で鳴っているように感じられる。ここはただの森ではない。境界に近い、世界の継ぎ目に触れている場所だった。
その中で、ミアはしゃがみこんでいた。
落ちていた小さな石を拾い上げ、指先でくるくると回している。意味のある行為ではない。ただ、触れて、確かめているような仕草。
ナギは少し離れた木にもたれ、腕を組んでいた。視線は森の奥に向いている。何かを待っているというより、来るものを最初から知っている顔だった。
ニチカは、その中間に立っている。
この場所には何度か足を運んでいたが、今日の空気は明らかに違った。薄い膜のようなものが張られている。誰かが“通る”前触れ。しかもそれは、隠される類のものではない。
(……早すぎるだろ)
内心で、わずかに眉を寄せる。
情報が上がるのは予想していた。草薙の網は広い。ニチカ自身がどれだけ隠しても、“異常な動き”は必ず拾われる。
だが――(もう来るのか)
それも、“あの人が”直接。
足音はしなかった。
気配も、ぎりぎりまで現れない。
それでも、そこに立った瞬間には、最初からいたかのように空間に馴染む。
森の奥、木々の影の重なりから、一人の男が現れた。
誰も伴っていない。
護衛も、従者も、影すら引き連れていない。ただ一人で、そこにいる。
ニチカの喉が、ほんのわずかに鳴る。
(……本気かよ)
あり得ないことだった。
草薙商会の頂点に立つ存在が、単独で、しかも境界に近いこの場所へ足を運ぶなど。危険という言葉では足りない。普通ならば、あり得ない選択。
だが――
その“あり得なさ”が、逆にすべてを証明していた。
来たのは、商会長その人。
草薙シレン。
空気が、わずかに重くなる。
威圧ではない。存在の“密度”が違う。周囲の情報量が一段階増えるような感覚。見えているものの奥に、さらに別の層が重なる。
ニチカは無意識に背筋を伸ばしていた。呼ばれていないのに、姿勢が整う。
それほどまでに、染みついている。
だがその緊張を、あっさりと壊したのは――ミアだった。
彼女は石を放り、立ち上がると、いつもと変わらない調子で言った。
「シレンじゃないか、久しぶりだね」
あまりにも自然な声。
まるで、近所で顔を合わせた知り合いにでも声をかけるような。
その一言に、時間が止まる。
ニチカの思考が一瞬で空白になる。
(……は?)
“シレン”。
呼び捨て。敬意も、距離も、なにもない。
だが――
次に起きたことが、それ以上の衝撃だった。
シレンの身体が、揺れた。
一歩、踏み出そうとした足が、わずかに崩れる。
そしてそのまま、まるで支えを失ったかのように――
膝から、地面へと落ちた。
乾いた音が、森に響く。
土に膝をつき、深く頭を垂れる。
その動きに、一切の迷いはなかった。
むしろ、そこに至るまで抑えていたものが、ようやく解放されたかのような、そんな落ち方だった。
ニチカは、息をするのを忘れる。
目の前の光景が、理解を拒む。
草薙商会長が。
あのシレンが。
誰にも膝を折らぬとされるあの男が。
いま、ひとりの少女の前で、地に膝をついている。
そして――声が、震えた。
「……また、お会いできて……」
絞り出すような声。
だがその奥には、抑えきれない感情が溢れている。
顔を上げることなく、シレンは続ける。
「光栄至極にございます」
言葉は整っている。
だが、その整えられた形の内側で、すべてが崩れている。
「黄泉よりの帰還……信じておりました」
ぽたり、と。
地面に水滴が落ちる。
最初は一滴。
次に、もう一滴。
それが何か、理解するのに時間はかからなかった。
涙だった。
抑えようともせず、ただ流れている。
声は静かだが、そこにあるのは確かな歓喜と、長い時間の積み重ね。
ニチカは、完全に言葉を失っていた。
(……何だ、これ)
知っているはずの世界が、音を立てて崩れていく。
草薙商会長。絶対の頂点。
すべてに値をつけ、すべてを切り分ける存在。
その男が――
“帰還”という言葉を使い、“再会”に涙を流している。
つまりそれは。この少女が。ミアが。
ただの白き魔女ではないことを、示している。ナギは、その光景を黙って見ていた。
驚きはない。ただ、ほんのわずかに目を細める。
「……やっぱりか」
小さく呟く。
すべてを理解しているわけではない。だが、“こうなる可能性”は考えていた。
ミアは、その前に立ったまま、少しだけ困ったように笑った。
「そんな大げさなことしなくていいのに」
軽い調子。だが、拒絶ではない。むしろ――どこか懐かしむような響きがある。
「ちゃんと生きてるよ、ほら」
くるりと一回転してみせる。
真珠色の髪が、ふわりと広がる。
その仕草は無邪気で、あまりにも“今”を生きている。
だがシレンは、なおも頭を垂れたまま動かない。震えが、わずかに残っている。
それは恐れではない。畏れですらない。もっと個人的で、もっと深いもの。
ニチカは、ゆっくりと息を吸った。
理解は追いつかない。だが、ひとつだけ確かなことがある。
(……僕は、とんでもないところに立ってる)
関わってしまった。もう引けない。
そして――それでいい、と。どこかで思っている自分がいる。
ニチカの視線は、自然とミアへと向いた。彼女は、変わらずそこに立っている。
世界の外側に触れながら、それでも“ただの少女”のように笑う存在。
その足元に、商会長が膝をついている。
その光景が、何よりも雄弁だった。
草薙の頂点ですら、彼女の前では“過去”に膝を折る。
ならば――(僕は)その先に、何を見ることになるのか。
胸の奥で、静かに何かが熱を持つ。
恐怖ではない。興奮でもない。ただ、確かな予感。
この出会いが、自分のすべてを変えていくという、逃れようのない確信だった。




