第十二話
「主よ、少し先に小川がある。水の純度も問題なさそうだ」
草を踏み分ける音とともに、ユエリーが戻ってくる。風に揺れる草の海の向こうから現れたその姿は、まるで最初からそこに在ったかのように静かで、けれど確実に周囲の空気を引き締めた。
ミアは顔を上げ、小さく頷く。
手元の聖典を閉じると、浮かんでいた文字がすっと霧のように消え、ただの本の姿へと戻った。その一連の動作にも、もう迷いはない。
「よし、じゃあまずは小川の近くに拠点を作ろう」
立ち上がると、草がさやりと鳴る。
視線を少し遠くへ向ける。ユエリーが見つけた小川の方向――わずかに地面が沈み、草の色が濃くなっているあたりに、確かに水の気配がある。
「見たところ、野獣もいないし……精霊も微精霊しかいないみたいだね」
レース越しの視界の中で、空気の揺らぎを読み取る。
ここにいるのは、まだ意思を持つには至らない、ごく淡い存在たち。光の粒のように漂い、風に溶けるように消えていく。害はない。けれど、力もまた小さい。
「風の気配は強いけれどね」
頬を撫でる風が、少しだけ強まる。
一定ではない流れ。時折、遠くから押し寄せるように吹き抜けるそれは、この土地に何かしらの偏りがあることを示していた。
ユエリーはその風を受けながら、無言で周囲を見渡す。
警戒は解かない。
危険がないと判断しても、それは今この瞬間に限った話だ。空も、地も、風も、すべてを観測し続ける。
ミアはそんな背をちらりと見て、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「じゃあ、行こっか」
軽く言って、小川の方へ歩き出す。
草をかき分けるたびに、微精霊たちがふわりと舞い上がる。触れれば消えてしまいそうな儚い光。それでも確かにそこに在る、小さな命の気配。
その中を進みながら、ミアは思う。
ここから始めればいい。
この小さな存在たちが、やがて人の祈りを受け取り、形を持ち、力となる日が来るのだとしたら――
その最初の一歩を、今ここで。
風が、またひとつ強く吹いた。




