第七話
次の日の朝、まだ空気に夜の名残が薄く漂っている頃合いだった。
庵の戸口が、ひょいと軽い気配で開く。
「良かった、間に合った」
聞き慣れた声とともに現れたのは、場違いなほどに重厚な姿だった。
黒い甲冑をまとったままのニチカ。
本来なら戦場か式典にでも立っているべき装いのまま、何の気負いもなく日常の中へ踏み込んでくる。その違和感すら、もはやこの庵では誰も指摘しない。
次の瞬間には、その長身がぐっと折り曲がり、視界いっぱいに影が落ちる。
そして、そのまま――抱きしめられた。
強く、遠慮なく。
硬質な金属の感触が、柔らかな身体に容赦なく食い込む。
「痛いよニチカ」
抗議の声を上げるが、当の本人にはまるで届いていない。むしろ腕の力はわずかに強まった気さえする。
「……あー、こんな可愛い子を旅に出すなんてやるせないよ」
低く落とされた声は、冗談めいているのに、その実どこか本気だ。
「今からでも僕の宮殿に入りなよ。ね、不自由させないよ?」
さらりと口にする内容が、まったくさらりとしていない。
この数年で、ニチカの立場は大きく変わった。
草薙商会の総帥として名実ともに認められ、拠点として与えられた宮殿を持つ身となった。富も、人脈も、力も、すべてを手に入れた男。
その周囲には自然と人が集まり、献上される者も少なくない。結果として、彼のもとにはいわゆる囲われた人が存在しているという話も、遠からず耳に入ってくる。
けれど――
「嫌だよ、虐められそう」
ミアの返答は、いつも通りあっさりしていた。
「大丈夫、理解あるひとしかいないから」
即座に返されるフォロー。
だがその言葉も、説得力があるようでいて、どこか的を外している。
「それでも嫌」
ぴしゃりと断る。
間を置かない、迷いのない拒絶。
そのやり取りに、特別な緊張はない。
何百回と繰り返してきた応酬。
提案しては断られ、断られてはなお食い下がる。その流れすら、もはやひとつの様式美のように定着している。
ニチカはようやく腕の力を緩め、名残惜しそうに手を離した。
その視線は、以前よりもずっと真っ直ぐで、ずっと隠しがない。
「……そっか」
軽く笑う。
だが、その奥にある感情までは誤魔化せていない。
手に入るものはすべて掴んできた男が、唯一思い通りにならないものを前にしている。
それでも引き下がらないのは、執着か、意地か、それとも――
ミアはそれを深く追わない。
ただ、いつも通りの距離で、いつも通りに立っている。
それが今は、一番自然な形だった。




