第五話
「ひとつの旅が終わる度、必ずこの庵に戻るんだ。忘れるなよ?」
老師はこめかみを押さえたまま、念を押すように言った。その声音はどこか疲れているのに、芯の部分だけは決して揺らがない。帰る場所を定めておくこと。それがどれほど重要か、言葉にせずとも伝わってくる。
「それと、俺からの餞別は、これだ」
差し出されたのは、一冊の本だった。
装丁は簡素で、華美な装飾はない。だが手に取った瞬間、指先に伝わる“重み”がただの紙束ではないことを告げていた。表紙の奥に、幾重にも折り重なった術式の気配が沈んでいる。
「これは、」
ミアが問いかけるより先に、老師が短く答える。
「アカシックレコードを改良した魔道具だ。名付けて――時の聖典」
その名が落ちた瞬間、空気がわずかに張り詰める。
「時神殿の使徒のみが読める、世界の記憶だ」
静かに告げられる説明は、あまりにも重い内容を孕んでいた。
世界で何が起きているのか。どこで、誰が、どのように動いていたのか。
それが“現在進行形で”記される。
だが記録として落ちた時点で、それはすでに“過去”となる。ほんのわずかに遅れた真実。その積み重ねが、未来を読み解くための材料になる。
予言ではない。
だが、予測するには十分すぎる情報。
ミアはそっと頁を開いた。
紙が擦れる音とともに、文字が浮かび上がる。読み取ろうと意識した瞬間にだけ、意味を持って整列する記述。意識を外せば、ただの記号の羅列へと崩れる。
パラパラと数頁を捲り、ミアは小さく口笛を吹いた。
「……師匠なのに、すごい太っ腹ですね」
軽く言ってのけるが、その価値は理解している。
これ一冊で、どれだけの命運が左右されるか。どれだけの選択を先回りできるか。
老師は鼻を鳴らした。
「お前以外に使いこなせるやつはいないだろ」
突き放すようでいて、その実、完全な信頼を置いている言い方だった。
「ま、それを使って上手くやれ」
それ以上は何も言わない。
託すだけ。
ミアは本を閉じ、胸元に抱えた。
その重みが、これから背負うものの一端を示しているようで、わずかに息を整える。
――明日の早朝。
出立は、もう決まっている。
見送りは、ナギと老師。
それだけで十分だと、誰もが分かっていた。




