第百三十二話
老師との話し合いを終えて書斎を出たとき、外はすでに黄昏へと傾きはじめていた。
昼の名残を引きずった光が庵の周囲を柔らかく包み込みながら、ゆっくりと影を長く伸ばしていく。
その色合いはどこか優しく、同時に一日の終わりを静かに告げるようでもあって、ミアはほんのわずかに足を止め、その光景を胸に刻むように見つめてから、いつものようにキッチンへと足を運んだ。
やることは決まっている、夕餉の支度。
けれどその“いつも通り”が、今日はどこか違って感じられる。
保存食の棚を開けると、冬を越えるために蓄えられていた食材の残りがずらりと並んでいて、それらを手に取りながら、使い切るという行為が単なる消費ではなく、季節の終わりと新しい生活への移行を意味しているのだと、改めて実感する。
干し肉、燻製、乾物、保存のために手を加えられたそれぞれが、長い時間を共に過ごしてきた証のように思えて、ひとつひとつに妙な愛着すら湧いてくる。
「今日も……豪華になりそうだね」
小さく呟きながら手を動かす、鍋に火を入れ、刻み、混ぜ、香りが立ち上っていく。
その一連の動作はもう身体に染みついていて、考えなくても自然に進んでいくのに、今日はその一つ一つを意識してしまう。
背後からは、いつもの音が聞こえてくる。
ぱちり、と軽い駒音。
続いて、ニチカの軽やかな声と、それに応じるナギの淡々とした返し。
リビングでは将棋が始まっているらしい、盤を挟んで向き合う二人の姿が目に浮かぶ。
勝ちにこだわるニチカと、どこか俯瞰で見ているナギ、その対比が妙にしっくりきて、思わず口元が緩む。
そして――
「危ない」
すぐ後ろから声が飛んでくる。
「包丁の持ち方が甘い。手を切るぞ」
振り返らなくても分かる。
ユエリーだ。
案の定、すぐ背後に立っていて、じっと手元を見ている。その距離の近さも、視線の真剣さも、すべてが過剰なのに、本人にはその自覚がない。
「大丈夫だよ、慣れてるもん」
軽く返すが、すぐに次が来る。
「火が強い」
「そのままでは焦げる」
「油が跳ねるぞ」
矢継ぎ早に飛んでくる指摘。
「……ユエリー、料理しないよね?」
半ば呆れながら言うと、ほんの一瞬だけ言葉に詰まり、しかしすぐに持ち直す。
「知識はある」
真顔だった。
それがまた可笑しくて、ミアは小さく笑ってしまう。口うるさいのに、的外れではないところが余計に始末が悪い。
それでもその声がすぐそばにあることに、妙な安心感を覚えている自分にも気づいている。
鍋の中で食材が踊り、香りが部屋に広がっていく。
リビングの会話と混ざり合いながら、それはこの庵の“日常”そのものの匂いになっていく。
ふと、手を止めずに考える。
(……覚えておこう)
この光景。この音。この匂い。
何気ないやり取りも、些細な言葉も、全部。
「平和だね」
ぽつりと漏れた言葉に、誰が反応したのかは分からない、けれどそれでいいと思った。
平和で、穏やかで、当たり前のように続く時間。
けれどそれが永遠ではないことも、もう知っている。
七年。
その先にある旅路。
きっと、この何気ない日常を懐かしく思う日が来る。
そう遠くない未来に。
だからこそ今は、この時間を逃さないように、胸の奥に丁寧にしまい込むようにしながら、ミアは再び鍋を振った。
火の揺らめきが頬を照らし、その向こうで、変わらない日常が確かに続いていた。




