第百二十八話
老師の言葉が落ちたあと、書斎の空気はぴたりと止まったように感じられた。
逃げ場のない問いの余韻がそのまま残り、どちらに転んでも軽くは済まない選択肢だけが目の前に差し出されている。
ミアは一度だけ息を吸い、その重さを受け止めるように胸の奥へと沈め、それからゆっくりと口を開いた。
「……ニチカの手が血塗れなら」
言葉にした瞬間、その姿が脳裏に浮かぶ、軽やかな笑みの裏で何を積み上げてきたのか。
そのすべてを知っているわけではない。
それでも、あの手が何も汚さずにここまで来たとは思っていない、その現実を受け入れた上で続ける。
「私の手だけが、綺麗であっていいはずがないわ」
静かな声だった、けれど揺らぎはなかった、綺麗でいることが正しさだとは思っていない。
むしろそれが誰かの犠牲の上に成り立つのであれば、それはただの逃避でしかないと、そういう理解がすでに自分の中にある。
「彼を友と呼ぶなら」
言葉を重ねるごとに、自分の立ち位置を確かめるように。
「そうさせた私が、それを厭うて安全圏で何もしないなんて……そんなの、不平等だもの」
そこには感情があった、理屈だけではなく、どう在りたいかという感覚がはっきりと滲んでいる。
誰かが泥を被るのを知りながら、自分だけが無傷でいることへの違和感、それを見ないふりをすることのほうが、よほど自分にとって耐えがたい。
老師は何も言わない、ただその言葉を受け止めている、その沈黙が続きを促す。
ミアはわずかに視線を上げる、逃げないと決めた者の目で。
「たしかに私は、まだ幼くて弱い」
否定しない、それは事実だと理解しているからこそ、あえて言葉にする。
「それでも……」
ほんの一瞬、間を置く、その先にある言葉を、選ぶというよりも、もう決まっているものとして。
「ともに立ちたいと思っています」
守られる側にいるだけではなく、同じ場所に立つ存在として、自分を位置づけたいという意思。
それは背伸びでも理想論でもなく、覚悟に近い響きを持っていた。
静寂が戻る。
書斎の中で、その言葉だけが、確かに残っている。




