第百二十七話
書斎に落ちた沈黙は、先ほどまでのやり取りをゆっくりと沈殿させるように重く、逃げ場を与えない種類の静けさだった。
老師はすぐには答えず、ただミアを見ている。
その視線には測るような鋭さと、どこか見守るような深さが同時に宿っていて、軽々しく肯定も否定もされないことが、かえって次の言葉の責任を重くする。
「……そのためにすべきことは、なんだと思う?」
問いは短い、だが答えを外せばすぐに崩れるような、細い綱の上に立たされた感覚がある、誘導ではない。
試しているのだと分かる。
そしておそらく――この人は既にいくつかの答えを持っている。
その上であえてこちらに考えさせている。
ミアはすぐには答えなかった、頭の中に浮かぶ選択肢を一度並べ、それぞれの先にある結果を想像し、その中で最も現実的で、かつ自分が引き受ける覚悟を持てるものを選び取る。
その過程を、言葉にする前にしっかりと踏む。
「……旅、でしょうか」
やがて出た答えは、静かだったが揺らがなかった。
「私が世界を渡り歩いて、少しずつ精霊の力を知らしめていけば……時間はかかっても、可能ではないかと」
言いながら、その光景が頭の中で具体性を持っていく、各地に点在する人々の暮らし、そこに自然と根付く精霊の存在を言葉にし、歌にし、記録にし、広げていく、急がず、押し付けず。
しかし確実に浸透させるやり方、それは遠回りに見えて最も確実な道だと感じていた。
同時に、その危うさも理解している、目立てば狙われる、誤れば利用される、何より――自分自身がその中心に立つことになる。
だからこそ、人任せにはしたくなかった。
自分で見て、自分で選び、自分で進める形でなければ、この計画はどこかで歪む。
だが――
「危険だ」
間を置かず、老師が切り捨てた。
短い一言だったが、その中には議論の余地を削ぎ落とすだけの重みがあった。
ミアの言葉を否定したというよりも、その“前提”を一刀で断ち切るような響き。
「お前はまだ小さく、弱い」
続く言葉は、感情ではなく事実として突きつけられる。
「守られるべき存在だ。その身に傷がつこうものなら、四王だって黙っていない」
淡々としているが、その背後にある力関係は重い、ミア一人の問題では済まないこと、周囲の存在すべてを巻き込む可能性があること、それを分かった上で言っている。
ミアは一瞬だけ唇を引き結ぶ、分かっていないわけではない。
その通りだと思う部分もある、けれどそれでも、そこで引き下がる選択は最初から持っていなかった。
「……でも」
小さく、しかしはっきりと口を開く。
「いずれ私は、大きくなります」
視線は逸らさない。
「守られるだけの、か弱い存在のまま居るつもりはありません」
それは反論というより、意思表示だった、今がそうであっても、未来までそれを固定するつもりはないという宣言、自分がどこへ向かうのかを、はっきりと示す言葉。
書斎の空気が、わずかに軋む。
老師の目が細くなる。
そして、次に投げられた言葉は、静かでありながら鋭かった。
「ならば」
ほんのわずか、間。
「ニチカのように、自分を追い込み……その手を血に染めるのか?」
問いという形をしているが、これは選択を迫る言葉だ。
成長するということ。
力を得るということ。
その先にある現実を、ぼかさず突きつけてくる。
ニチカの姿が頭をよぎる、軽やかな笑みの裏で積み上げてきたもの、商人でありながら剣を持ち、結果を掴むためにどれだけのものを切り捨ててきたのか、その一端は、もう見ている。
“強くなる”という言葉の裏側にあるもの。
それを、ミアは引き受けるのか。
書斎の静けさが、答えを待っていた。




