第百二十四話
迷いの森を抜ける光が、まだらに差し込む。
葉の隙間から落ちてくるそれはやわらかく、けれど確かに外界へと続く気配を帯びていて、緑の匂いの濃さが少しずつ薄れていくのと同時に、胸の奥に沈んでいた思考がゆっくりと浮かび上がってくる。
ユエリーの腕の中。
抱えられたままの視界は少し高く、揺れもある。
その安定しないリズムの中で、ミアは静かに結論を出していた。
――これは、話さない方がいい。
言葉にすれば簡単な判断。
けれどそこに至るまでには、いくつもの小さな感情の揺れが折り重なっている。
さきほどの光景。
セルジュの笑顔。
差し出された手の温度。
そして、あの何の迷いもない言葉。
“君がいい”
“未来のお嫁さん”
“夫婦になるんだから遠慮はなし”
思い出すだけで、少しだけ胸の奥がざわつく。
嫌ではない。
むしろ、まっすぐすぎて眩しいくらいだ。
けれど――
(これは、言ったらだめ)
ユエリーの腕の強さを思い出す。
あの拭い方。
あの沈黙。
あの、言葉にならなかった感情。
あれに、これを重ねたらどうなるか。
想像するまでもない。
火に油、という言葉では足りないくらいだ。
ニチカの顔も、頭をよぎる。
あの軽やかな笑みの裏で、何をどう受け取るのか。
ナギは茶化すだろう。
老師は黙るだろう。
そして結局、空気は確実に重くなる。
(そんなの、望んでない)
小さく、内心で首を振る。
守りたいのは、この“均衡”だ。
危うくて、不安定で、それでも今はまだ保たれている関係。
だから、その選択は自然だった。
話さない。
今はまだ。
その代わりに――思考は別の方向へと流れていく。
宇宙樹。
あの光景。
無数の実。
星のように瞬いていた“命”。
セルジュの言葉が、静かに蘇る。
――生まれた精霊は、必要なところに送り出している。
(必要なところに……)
その意味を、噛みしめる。
無作為ではない。
偏りでもない。
“必要”に応じて配される存在。
精霊。
自然に宿るもの。
人の手の届かない領域にありながら、確かに世界と密接に関わる力。
(……これって)
ミアの中で、ひとつの像が形を取り始める。
天。
神の代行者。
翼を持ち、裁きを下す存在。
人の上に立ち、導くもの。
その“上からの支配”に対して――精霊は違う。
もっと近い。もっと自然だ。
風にあり、木にあり、水にあり、触れられる場所に在るもの。
信仰という形を取らなくても、気づけばそこに“ある”存在。
(……根付く)
じわりと、理解が広がる。
これは対抗しうる。
いや――対抗どころではない。
人の心に深く入り込む余地がある。
精霊信仰。
それが広がれば、唯一であるはずの“天”の正当性は揺らぐ。
絶対であるものが、絶対でなくなる。
それは――世界の構造を変える。
「……」
無意識に、ミアの指先がわずかに動く。
考えが深くなっている証。
(大事変、だね)
小さく、内側で呟く。
簡単ではない。
危険もある。
急げば反発が起きる。
排除される可能性もある。
それでも。
(……できる)
確信に近いものが、静かに芽吹く。
急ぐ必要はない。
むしろ、急いではいけない。
ゆっくりでいい。
時間をかければいい。種を蒔くように。気づかれないように。自然に広げていけばいい。
(虫は、大樹を滅ぼす)
ふと浮かんだ言葉に、自分で少しだけ驚く。
穏やかな森の中で考えるには、あまりにも物騒な比喩。
けれど、的確でもある。
巨大で揺るがぬものも、内側から食われれば崩れる。
時間を味方につければ、どんな構造も変えられる。
ミアは何も言わない。
ただ、ユエリーの腕の中で静かに揺られながら、その小さな身体の内側で、途方もなく大きな計画の“種”を抱えていた。




