第百二十三話
「あー……なんだ」
重くなりかけた空気に、わざとらしく軽い声が差し込まれる。
ナギだった。
肩をすくめ、ため息混じりに続ける。
「お前だって印、つけただろ?」
ちらりと視線を流す。
ユエリーの方へ。
「そんな神経質になるなって」
冗談めかした口調。
だが、その実――場を壊さないための配慮でもある。
ユエリーは、何も言わなかった。
ただ一瞬だけ、視線を落とす。
そして、低く、押し出すように。
「……私は」
言葉が、少しだけ詰まる。
「見えにくい場所にした」
静かな声。
だがその奥にある感情は、抑えきれていない。
「手首に」
ほんのわずかに、ミアの腕を見る。
袖の内側。
外からは見えない場所。
そこに刻んだ、自分の印。
触れなければ分からない、けれど確かに“ある”証。
「それを……」
言葉が、止まる。
続けられない。
視線が、ミアの額へと上がる。
赤い六花。
隠しようもない場所に、消えない形で残されたもの。
あまりにも――対照的だった。
「……あの鹿は」
吐き捨てるようにも、呆れたようにも聞こえる声。
けれど本音は、そのどちらでもない。
奪われた、とは言わない。
上書きされた、わけでもない。
だが――“見せつけられた”。
そういう種類のものだった。
ナギは一瞬だけ黙って、それから小さく鼻で笑った。
「分かりやすい牽制だな」
軽く言う。
けれど核心は突いている。
ユエリーの眉間に、わずかに皺が寄る。
否定はしない。
できない。
ミアはそのやり取りを、静かに聞いていた。
抱えられたまま、両者の間にある温度差を感じ取りながら。
そして、そっと自分の手首に触れる。
袖の内側。
ユエリーの印。
次に、額へ。
セルジュの印。
どちらも、消えていない。
どちらも、確かにある。
「……どっちも大事だよ?」
ぽつりと、ミアが言う。
特別な意図もなく、ただ思ったままを。
その一言で、空気が、わずかに揺れた。
ユエリーの腕の力が、ほんの少しだけ緩む。
ナギは、やれやれと肩をすくめた。
「はいはい、ごちそうさま」
軽口を叩きながらも、どこか安堵したような声音だった。
森の出口が、近づいてくる。
光が、差し込む。
その中で――誰もそれ以上、言葉を重ねなかった。




