第百二十一話
緑の洞を戻る道。
来たときと同じ景色のはずなのに、まるで違って感じられた。
先ほどまでは、息を潜めるような静寂だった。
けれど今は――言葉を失ったあとの静けさ。
それぞれが、何かを胸に抱えたまま沈んでいる。
足音だけが、やけに大きく響く。
その中で、不意に。
ぐい、と。
ミアの身体が持ち上げられた。
「……ユエリー?」
問いかけるより早く、強い腕がその身体を抱え込む。
抗議の余地もない。
そのまま、ぐっと引き寄せられ――次の瞬間。ごし、と。
乱暴なほどの手つきで、額を拭われた。
「ちょ、ちょっと――」
言いかけるが、その手は止まらない。
もう一度。
さらに強く。
まるで“何か”を消し去ろうとするように。
執拗に。
何度も。
誰も、止めない。
ナギは視線を逸らし、
ニチカは口を閉ざし、
老師はただ静かに見ている。
その行為の意味を、全員が理解しているから。
ユエリーの動きは荒い。
だが、その奥にあるものは――明確だった。
拒絶。
焦燥。
そして、どうしようもない苛立ち。
「……」
やがて、ぴたりと手が止まる。
呼吸が、わずかに荒い。
ミアの額に触れたまま、動かない。
そして――視線を落とす。
そこにあるものを、確認するように。
消えていない。
どれだけ拭っても。
どれだけ力を込めても。
そこには確かに残っていた。
赤い印。
小さな、六花。
雪の結晶のように精緻で、それでいてどこか“生きている”ような紋様。
肌に刻まれたように、淡く、しかし確実に。
消えない。
「……くそ」
低く、押し殺した声が零れる。
初めての言葉だった。
ユエリーの指先が、わずかに震える。
それは怒りか、それとも――別の感情か。
ミアは何も言わない。
ただ、そのまま抱えられている。
拒まない。
振りほどかない。
静かに、その腕の中に収まっている。
そのことが、余計にユエリーの中の何かを揺らす。
精霊王の祝福。
いや――所有の印。
それは、単なる加護ではない。
“関係”の証。
消せないもの。
上書きもできないもの。
ナギが小さく息を吐く。
ニチカは視線を細める。
老師は、ほんのわずかに目を伏せた。
誰も軽く扱えないものが、今、ここに刻まれている。
緑の洞を抜けるまで、その静けさは、途切れることがなかった。




