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星眼の魔女 第二部  作者: しろ
第一章

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第十二話

その日、空気はやけに澄んでいた。

境界と境界のあわいにある、名もない薄層。風はないはずなのに、どこかで世界が擦れ合うような微かな揺らぎだけが続いている。足場は確かにあるのに、長く立っていると自分の輪郭がぼやけていく――そんな場所だった。

ミアはその中央に立っていた。

白いフードはいつものように目深に被られているが、その奥の星眼は静かに開かれている。何かを“見ている”というよりは、流れを確認しているような目だった。世界の行き先、あるいは終わりの角度。そのどれにも感情は乗っていない。ただ、必要なだけの認識。

ナギは少し後ろに立ち、周囲を見ていた。警戒というよりは、既に把握したものをなぞるような視線。ここに来る前から、気配はわかっている。

来る。

それも、隠すつもりのない来方で。

そして実際、隠れていなかった。

空間の歪みがわずかに寄る。そこに現れたのは、あの少年だった。

褐色の肌に、整いすぎた顔立ち。均衡が崩れないまま成立している美しさ。銀の長髪が背に流れ、光を受けるでもなく、ただそこにあるだけで視線を引く。紫水晶の瞳は静かで、だが一度何かを捉えれば逃さない種類の深さを持っている。

草薙ニチカ。

彼は歩いてくる。

急ぐでもなく、躊躇もなく、距離を測る必要もないと知っている歩き方。場を読むのではなく、場が彼に合わせて整っていく。

ナギの視線がわずかに細くなる。

ミアは動かない。

そして――彼があと数歩の距離まで来たところで、ミアが口を開いた。


「ところでなんだけど、私、あなたの名前を聞いてないわ」


それは何でもない一言だった。

責めるでもなく、詰めるでもなく、ただ事実を指摘するだけの声音。

だが、その言葉が届いた瞬間、ニチカの中で何かが止まった。

初めてだった。

面と向かって、真正面から、彼女に“話しかけられた”。

これまでも言葉は交わしている。だがそれは断片で、流れの中の一部に過ぎなかった。こんなふうに、彼だけを対象にして、視線と言葉がまっすぐ向けられたことはなかった。

心臓が、遅れて強く打つ。握られたような感覚。

痛みではない。だが確かに“掴まれている”。

(……ああ)

思考が一瞬遅れる。それでも、表情は崩さない。

崩さないどころか、いつも通りに笑うことすらできる。

それが彼の異常さだった。


「草薙ニチカ」


短く、名乗る。

余計な装飾はつけない。だがその一言に、すでにすべてが含まれている。

草薙の名。商会の血。その中での立ち位置。


ミアは小さく頷く。


「私はミア、白き魔女」


さらりと告げる。重みも誇示もない。だが、その名は確かに“定義”だった。


「こっちはナギ。私のお兄ちゃん」


ナギは軽く顎を引くだけで応じる。

視線はニチカから外さない。


ミアは続ける。

その声音は変わらない。穏やかで、しかし逃げ道を与えない平坦さ。


「ナギから、さんざんあなたが異様だって聞いてるの。耳にタコができそうなくらい」


ナギが小さく息を吐く。否定はしない。

ニチカは、わずかに肩をすくめた。


「ひどい言われようだな」


軽く返す。だが、その内側では別のことを見ている。

(ちゃんと、見られてる)

評価されている。しかも、かなり正確に。


ミアは、そのまま視線を外さない。


「あちこちで手を回してくれてるのは、ありがたいけど」


ほんのわずかに間。


「私は、自分の力でやりたいの」


その言葉は、静かだった。強さを誇るでもなく、拒絶を示すでもなく。ただ、前提として置かれる意思。


ニチカは、その意味を即座に理解する。助けは不要ではない。だが、“無償の介入”は望まれていない。そして、最後にミアは言った。


「あなた、商人なんでしょう?」


一歩も動かないまま、核心だけを突く。


「対価のない取引は、しないでくれる?」


その瞬間、空気がわずかに張り詰める。


ナギは黙っている。

だが、判断はすでに終わっている目だ。これは拒絶ではない。条件提示だ。


ニチカは、ほんの一瞬だけ沈黙した。考えているわけではない。整理している。


(なるほど)


これは、線引きだ。関わること自体は否定しない。

だが、その関係は――対等であれ、という要求。


彼は、ゆっくりと息を吐く。そして、少しだけ笑みを深くした。


「……いいよ」


あっさりと答える。


「むしろ、そのほうが助かる」


本心だった。無償で関わるより、ずっといい。対価があるなら、関係は切れない。契約になる。


彼は一歩だけ距離を詰める。だが、それ以上は踏み込まない。


「じゃあ、改めて」


視線を、まっすぐミアに向ける。


「取引しようか、白き魔女」


その言葉には、軽さと同時に確定があった。


ニチカの中で、“好き”はすでに次の形に変わっている。ただ想うだけでは足りない。関わるだけでも足りない。


成立させる。


彼女との関係を、どの世界でも通用する形で。


だから彼は、商人として立つ。傭兵でもなく、諜報でもなく。

まずは――


対価を持つ存在として。


ミアは、それを静かに見ていた。そして小さく、頷いた。

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