第十二話
その日、空気はやけに澄んでいた。
境界と境界のあわいにある、名もない薄層。風はないはずなのに、どこかで世界が擦れ合うような微かな揺らぎだけが続いている。足場は確かにあるのに、長く立っていると自分の輪郭がぼやけていく――そんな場所だった。
ミアはその中央に立っていた。
白いフードはいつものように目深に被られているが、その奥の星眼は静かに開かれている。何かを“見ている”というよりは、流れを確認しているような目だった。世界の行き先、あるいは終わりの角度。そのどれにも感情は乗っていない。ただ、必要なだけの認識。
ナギは少し後ろに立ち、周囲を見ていた。警戒というよりは、既に把握したものをなぞるような視線。ここに来る前から、気配はわかっている。
来る。
それも、隠すつもりのない来方で。
そして実際、隠れていなかった。
空間の歪みがわずかに寄る。そこに現れたのは、あの少年だった。
褐色の肌に、整いすぎた顔立ち。均衡が崩れないまま成立している美しさ。銀の長髪が背に流れ、光を受けるでもなく、ただそこにあるだけで視線を引く。紫水晶の瞳は静かで、だが一度何かを捉えれば逃さない種類の深さを持っている。
草薙ニチカ。
彼は歩いてくる。
急ぐでもなく、躊躇もなく、距離を測る必要もないと知っている歩き方。場を読むのではなく、場が彼に合わせて整っていく。
ナギの視線がわずかに細くなる。
ミアは動かない。
そして――彼があと数歩の距離まで来たところで、ミアが口を開いた。
「ところでなんだけど、私、あなたの名前を聞いてないわ」
それは何でもない一言だった。
責めるでもなく、詰めるでもなく、ただ事実を指摘するだけの声音。
だが、その言葉が届いた瞬間、ニチカの中で何かが止まった。
初めてだった。
面と向かって、真正面から、彼女に“話しかけられた”。
これまでも言葉は交わしている。だがそれは断片で、流れの中の一部に過ぎなかった。こんなふうに、彼だけを対象にして、視線と言葉がまっすぐ向けられたことはなかった。
心臓が、遅れて強く打つ。握られたような感覚。
痛みではない。だが確かに“掴まれている”。
(……ああ)
思考が一瞬遅れる。それでも、表情は崩さない。
崩さないどころか、いつも通りに笑うことすらできる。
それが彼の異常さだった。
「草薙ニチカ」
短く、名乗る。
余計な装飾はつけない。だがその一言に、すでにすべてが含まれている。
草薙の名。商会の血。その中での立ち位置。
ミアは小さく頷く。
「私はミア、白き魔女」
さらりと告げる。重みも誇示もない。だが、その名は確かに“定義”だった。
「こっちはナギ。私のお兄ちゃん」
ナギは軽く顎を引くだけで応じる。
視線はニチカから外さない。
ミアは続ける。
その声音は変わらない。穏やかで、しかし逃げ道を与えない平坦さ。
「ナギから、さんざんあなたが異様だって聞いてるの。耳にタコができそうなくらい」
ナギが小さく息を吐く。否定はしない。
ニチカは、わずかに肩をすくめた。
「ひどい言われようだな」
軽く返す。だが、その内側では別のことを見ている。
(ちゃんと、見られてる)
評価されている。しかも、かなり正確に。
ミアは、そのまま視線を外さない。
「あちこちで手を回してくれてるのは、ありがたいけど」
ほんのわずかに間。
「私は、自分の力でやりたいの」
その言葉は、静かだった。強さを誇るでもなく、拒絶を示すでもなく。ただ、前提として置かれる意思。
ニチカは、その意味を即座に理解する。助けは不要ではない。だが、“無償の介入”は望まれていない。そして、最後にミアは言った。
「あなた、商人なんでしょう?」
一歩も動かないまま、核心だけを突く。
「対価のない取引は、しないでくれる?」
その瞬間、空気がわずかに張り詰める。
ナギは黙っている。
だが、判断はすでに終わっている目だ。これは拒絶ではない。条件提示だ。
ニチカは、ほんの一瞬だけ沈黙した。考えているわけではない。整理している。
(なるほど)
これは、線引きだ。関わること自体は否定しない。
だが、その関係は――対等であれ、という要求。
彼は、ゆっくりと息を吐く。そして、少しだけ笑みを深くした。
「……いいよ」
あっさりと答える。
「むしろ、そのほうが助かる」
本心だった。無償で関わるより、ずっといい。対価があるなら、関係は切れない。契約になる。
彼は一歩だけ距離を詰める。だが、それ以上は踏み込まない。
「じゃあ、改めて」
視線を、まっすぐミアに向ける。
「取引しようか、白き魔女」
その言葉には、軽さと同時に確定があった。
ニチカの中で、“好き”はすでに次の形に変わっている。ただ想うだけでは足りない。関わるだけでも足りない。
成立させる。
彼女との関係を、どの世界でも通用する形で。
だから彼は、商人として立つ。傭兵でもなく、諜報でもなく。
まずは――
対価を持つ存在として。
ミアは、それを静かに見ていた。そして小さく、頷いた。




