第百十九話
「ところで――今日来たことの用向きだけど」
ミアは、ふと現実に引き戻るように言った。
宇宙のような空間も、金色の実も、すべてがあまりに大きすぎて。
だからこそ、自分の足場を確かめるように。
「ご近所に引っ越してきたから、そのご挨拶だったんだけど」
言いながら、少しだけ視線を上げる。
「精霊王さまは――」
「セルジュ」
言い終わる前に、重ねられた。
やわらかく、けれどはっきりと。
名を差し出すように。
ミアがきょとんとする。
セルジュは、ほんの少しだけ身を乗り出した。
「精霊王、じゃなくて」
翠の瞳が、まっすぐに覗き込む。
「名前で呼んでよ」
それはお願いであり、ほとんど“当然”のような響きでもあった。
距離を詰めることに、躊躇がない。
ミアは一瞬、言葉に詰まる。
「でも……せ、セルジュ……は」
慣れない呼び方に、ほんの少しだけ声が揺れる。
「偉い人なのに」
素直な戸惑い。
立場を理解しているからこその遠慮。
けれど――
「夫婦になるんだから、遠慮はなし!」
間髪入れず、明るく返される。
まるで当たり前の前提のように。
その言い切りに、ミアはぱちぱちと瞬きをした。
強引なのに、不思議と押しつけがましくない。
ただ、そう在るものとして差し出されている。
(……すごいな)
少しだけ、そう思う。
この距離の詰め方。
この迷いのなさ。
けれど、不快ではない。
むしろ――どこか、くすぐったい。
ミアは小さく息を吐いて、少しだけ背筋を伸ばした。
「……わかったよ」
ほんの少しの間を置いて、ちゃんと選ぶように。
「セルジュ」
名前を呼ぶ。
その一言だけで、距離が一歩、確かに変わる。
セルジュの表情が、ぱっと明るくなる。
無邪気な笑み。
さっきまでの“精霊王”の顔が嘘のように、ただの少年のような喜び方だった。
「うん」
満足げに頷く。
その反応があまりに素直で、ミアは思わず、ふっと笑った。
宇宙樹の下。
命に満ちた空間の中心で。
世界の根幹を担う存在と、小さな魔女が、名前で呼び合う。
それは、ほんの些細な変化で――けれど確かに、関係を一段、近づけるものだった。




