第百十四話
宇宙樹の麓。
その圧倒的な存在の前で、なお“動くもの”があった。
――光。
いや、違う。
それは生命だった。
金色の光をまとった、小さな鹿。
軽やかに、音もなく駆ける。
上も下も曖昧なこの空間を、まるで重力という概念すら持たぬかのように。
ひとたび“着地”するたびに、その足元から、緑が芽吹く。
苔が広がり、草が揺れ、命が瞬く間に満ちていく。
それは創造だった。
生まれるという行為そのもの。
「……」
誰も、声を出せない。目を逸らすこともできない。
その存在はあまりにも“純粋な命”だった。
やがて――その鹿は、ミアの前で止まる。ほんの一歩の距離。
じっと、見上げる。
翠の気配を帯びた瞳が、ミアを映す。
次の瞬間。ふわり、と。
輪郭がほどけた。
金の光がほどけ、形が揺らぎ、そして――“人”へと、変わる。
金色の巻き毛が、やわらかく揺れる。
白磁の肌。
透き通るような、欠けひとつない造形。
そして、深く、どこまでも深い――翠の瞳。
それはただの色ではない。
森そのもの。
命そのもの。
無限に広がる“生”をそのまま閉じ込めたような色だった。
年の頃は、ニチカに近い。
だが、纏う気配はまるで違う。
軽やかで、柔らかく、それでいて――底知れない。
白い布だけをまとった華奢な体躯。
その姿はあまりにも無防備で、けれど一切の隙を感じさせない。
完璧な均衡。
そして――微笑む。
それだけで、この空間の温度が変わったように感じられる。
「こんにちは、魔女」
声は、風のように軽い。
耳に届くというより、心に触れる。
「こんなに近くで話すのは、初めてだよね」
親しげで、だが距離を見誤らない絶妙な言葉。
まるで、ずっと前から知っていたかのような口ぶり。
ミアは、瞬きをひとつした。
驚きはある。
けれど――取り乱さない。
その瞳はまっすぐに、目の前の存在を見ている。
彼が何者であるかを、もう、理解しているから。
「僕の名はセルジュ」
少年は、軽く一歩近づいた。
その動きに合わせて、足元にまた小さな緑が芽吹く。
生命が、自然と従っている。
「よろしくね」
差し出される手。無垢な仕草。
だがその奥にあるものは――世界の根幹。精霊の頂点。この宇宙樹の主。
ユエリーが、わずかに息を詰める。
ナギは無言で状況を見極め、ニチカは完全に言葉を失っていた。
老師だけが、静かに目を細める。
――精霊王。セルジュ。
その存在が今、あまりにも自然に、あまりにも軽やかに、彼らの前に立っていた。




