第百十二話
――カチリ。
静寂の中で、その音はやけに鮮明に響いた。
誰も触れていないはずの扉。
それでも確かに、内側から鍵が回る。
重々しいはずの機構は驚くほど軽やかに、まるで「当然の手順」をなぞるように動いた。
軋みも、誇張もない。
ただ、すっと。
扉が開きはじめる。
華美な演出は一切ない。
ファンファーレも、光の奔流もない。
それでも――
その“何もなさ”が、逆にこの場の格を物語っていた。
「……」
誰も言葉を発さない。
ただ見つめる。
ゆっくりと開いていく隙間から、風が流れ出す。
ひやり、とした感触。
けれど冷たさではない。
濃密な“緑”の気配。
命の匂い。
森の奥深く、そのさらに奥にしか存在しないような、純度の高い自然の息吹。
ミアの髪が、ふわりと揺れた。
白いフードの猫耳が、かすかに震える。
その風は優しく、しかし確かな意志を持っているようだった。
――選ばれた者だけに触れる風。
「……招かれた、ね」
ミアが小さく呟く。
その声には、確信があった。
ただ通れるのではない。迎え入れられている。
ユエリーが一歩前へ出る。
だが、先に進まない。
ミアの動きを待つ。
主が最初に踏み入るべき領域だと、当然のように理解している。
ナギは静かに周囲を見据え、
ニチカは息を呑んでその光景を焼き付けている。
商人としてではなく、ひとりの“目撃者”として。
老師は――ほんのわずかに、口元を緩めた。
知っている者の表情。
だが同時に、これから先は自分ですら“完全には知らぬ領域”であることも理解している顔だった。
扉は完全に開いた。
その向こうには――深い緑。
光と影が幾重にも重なり、奥行きすら掴めない空間。
かつては、精霊の歌で満たされていた世界。
だが今は――静かすぎる。
その静けさが、逆に深さを感じさせる。
未知。
未踏。
そして――中心にいる存在。
姿も、力も、すべてが謎に包まれた精霊王。
その存在が、今――彼らを招いている。
ミアは一歩、踏み出した。
躊躇いは、ない。
小さな足が、境界を越える。
その瞬間、空気が変わった。
より濃く、より深く、世界そのものが“別の層”へと移行する。
背後で、仲間たちも続く。
誰一人として、足を止めない。
扉は静かに開かれたまま、彼らを受け入れていた。
まるで最初から、そうなることが決まっていたかのように。




