第百七話
平和な朝餉を終え、庵にはゆるやかな静けさが戻ってきた。
食器の片付けもひと段落し、外からは森のざわめきが穏やかに届いてくる。暖かな風が戸口をくぐり抜け、ほんの少しだけ日常に慣れ始めた空気を運んでいた。
その中で、老師がぽつりと口を開く。
「今日は森の探索ついでに、精霊王のところに行く」
あくまで“ついで”のように言うが、その実、重みのある予定だ。
ミアは一瞬だけ手を止め、静かにその言葉を受け止める。
ユエリーもまた、わずかに目を細めた。そして――
「つまりさ」
ぱっと顔を上げたのはニチカだった。
その表情は、あからさまに“輝いて”いる。
「“あのでっかい宇宙樹”に行くってことだよね?」
身を乗り出す。
疲労はもうどこにもない。完全に商人の目だ。
「草薙商会でも、誰も行ったことない場所なんだ」
興奮を抑えきれない声音。
「ついて行ってもいいでしょ?」
即答だった。
許可を求める形はしているが、半分はもう決めている顔だ。
老師は一瞬だけニチカを見やり、
「……かまわん」
あっさりと許可を出す。だがすぐに、わずかに眉をひそめた。
「精霊相手に商売する気か?」
淡々とした問い。
「通貨概念がある連中とは思えんがな」
現実的な指摘。
精霊という存在は、人間の尺度で測れるものではない。
価値の交換という概念すら共有できるか怪しい。
だが――ニチカはにやりと笑った。
「得るものが何も無いとは限らないでしょ?」
軽く肩をすくめる。
「珍しいものが手に入るかもしれないし」
視線が、どこか遠くを見る。
未知。未踏。前例なし。
それらすべてが、彼にとっては“価値”だった。
ナギが呆れたように息を吐く。
「お前ってほんと……」
少しだけ間を置いて、
「商魂逞しいな」
半分は呆れ、半分は感心。ニチカはさらりと受け流す。
「褒め言葉として受け取っとくよ」
そのやり取りを、ミアはくすくすと笑いながら見ていた。
重かった昨日の話が、少しずつ遠ざかっていく。
それでも――これから向かう先は、決して軽い場所ではない。
精霊王。
宇宙樹。
そして、この森そのもの。
ただの探索では終わらない気配が、確かにある。
ミアはそっと、自分の手を見つめた。
小さな手。けれど、その内にあるものは――あまりにも大きい。
「……行こうか」
小さく、けれどはっきりと口にする。
誰に向けたわけでもない。
それでも、その一言で流れが決まる。
ユエリーが静かに頷き、ナギが肩を回し、ニチカはすでに次の“何か”を探す目をしている。
そして老師は――何も言わずに、ただ外へと歩き出した。
森は、すぐそこにある。
未知と、静かなざわめきを湛えながら。




