第百六話
「……ここってば、迷いの森じゃん……」
朝靄の中に、へろへろとした声が滲んだ。
「戻るのむっちゃ時間かかった~……」
半べそをかきながら現れたのはニチカだった。
夜のあいだ彷徨っていたのだろう、髪は乱れ、服はところどころ枝に引っかけた跡があり、それでも背中にはしっかりと大きな荷を背負っている。中身は一目で分かる、ミアのために仕入れてきた夏装束一式だ。
くたくたに疲れ切っているはずなのに、その足取りは止まらない。
庵の前に辿り着いた瞬間、ようやく力が抜けたように膝をつきかけて――
「おかえり、ニチカ」
ふわりとした声が、先に届いた。
ちょうど朝餉の支度をしていたミアが、鍋の火加減を見ながら振り返っている。
朝の光に照らされたその姿は、昨夜の重苦しさをまるで引きずっていない。
いつもの、柔らかな日常の顔。
ニチカは一瞬だけ、目を細めた。
「あー……帰ってきたって感じする……」
力の抜けた笑いがこぼれる。
そのまま、どさりと荷を下ろした。
「頼まれてた夏服、全部持ってきたよ……たぶんサイズも大丈夫なやつ選んだ」
言いながら、軽く息を整える。
だが、その裏で――確かな達成感があった。
迷いの森。
磁場が乱れ、方位を示す器具は役に立たない。
方向感覚を狂わせ、同じ場所を何度も歩かせる厄介な領域。普通ならば、夜を越えて戻ってくることすら困難な場所。
ましてや、一度しか来ていない拠点を再特定するなど――常人の技ではない。
「……よく戻ってきたな」
背後からナギが現れ、呆れ半分で言う。
その目は、しっかりとニチカを観察していた。
ただの運ではない。
計算と執念で辿り着いている。
「まあね」
ニチカは肩をすくめる。
「森の“癖”さえ掴めば、あとはなんとかなるよ」
さらりと言うが、その言葉の裏には一晩分の試行錯誤が詰まっている。
ユエリーもまた、静かに視線を向けていた。
その瞳には、わずかな評価が浮かぶ。
ただの商人ではない。
その認識は、すでに確定している。
「でもさあ……」
ニチカはぐったりとその場に座り込みながら、
「さすがに夜の迷いの森は反則でしょ……」
心底うんざりしたように呟く。
「三回くらい同じ木見たからね、あれ絶対動いてるよ」
「動いてるぞ」
あっさりと老師が言った。
いつの間にか背後に立っている。
「意思持ってるからな、あそこは」
「聞きたくなかったなあ!?」
即座に返すニチカ。
だが、そのやり取りにわずかな余裕が戻っている。
ミアはくすくすと笑いながら、そっと湯気の立つ器を差し出した。
「はい、あったかいの。まず食べよ?」
優しい声。
それだけで、張り詰めていたものがほどけていく。
ニチカはそれを受け取り、ふう、と息を吐いた。
「……生き返る」
素直な感想だった。
朝の光。温かい食事。
そして――待っていてくれる人たち。
そのすべてが、確かにここにある。
迷いの森を越えてでも、戻ってくる理由としては十分すぎた。




