第百四話
夜はすっかり深まり、庵の外は梟の声だけが支配していた。
ニチカは――結局、戻らなかった。
仕事なのか、それとも何か別の動きがあるのか。誰も口にはしないが、それぞれがどこかで理解している。
静かなまま、就寝の時間が訪れた。
寝支度を整えたミアは、小さな足取りで寝台へ向かう。
その背後に、ぴたりと寄り添う気配。
「主、おいで」
低く、柔らかな声。
ユエリーだった。
どうやら今夜も、寝床での主導権を握るつもりらしい。
ミアは特に抗うこともなく、素直にその腕の中へと収まる。
慣れてしまった、というのもある。
けれどそれ以上に――拒む理由が、もうなかった。
ユエリーの手は、丁寧で、どこか恭しい。
壊れ物を扱うような慎重さ。
それなのに――抱き寄せる腕だけが、妙に強い。
ぎゅ、と逃がさないように力が込められる。
「ちょっと、ユエリー……?」
ミアが小さく声を上げる。
「力、強いよ?」
焦ったような囁き。
だが、ユエリーは緩めない。むしろ、そのまま――
「……そなたは、化け物などではない」
低く、押し殺した声で囁いた。
昼間の言葉。
あの一言が、ずっと引っかかっていたのだろう。
声の奥に、わずかな苛立ちと、悔しさが滲んでいる。
「私が守る」
即答だった。迷いも、考えも挟まない。ただの“決定”。
「天がどのように力をつけていたとしても」
腕に、さらに力がこもる。
まるで、見えない何かから奪われることを恐れるように。
「必ず」
その言葉は、誓いだった。
誰に向けたものでもない。
ただ、自分自身へ刻みつけるような。
「私の番」
「小さなあるじ」
「……愛している」
囁きは、途切れない。
まるで言葉にしていなければ、何かが壊れてしまうかのように。
ミアはそのすべてを、静かに受け止めていた。
否定もしない。困ったように笑うこともない。
ただ――宥めるように、そっとユエリーの腕に触れる。
小さな手で、ゆっくりと撫でる。
大丈夫だと、伝えるように。
そしてそのまま、額をユエリーの胸へと寄せた。
ふわりと広がる、花のような匂い。
変わらない香り。
懐かしさと、安心と、少しの切なさが混ざった匂い。
「……うん」
小さく、息を吐く。それだけで十分だった。
ユエリーの腕の中は、あたたかくて、少しだけ苦しくて、でも――確かに、守られている場所だった。
ミアの意識は、そのまま静かに沈んでいく。
花の匂いを吸い込みながら、ゆっくりと、深く。
やがて寝息が整い、小さな身体から力が抜けた。
ユエリーはしばらく、そのまま動かなかった。
眠ったことを確かめてもなお、腕を緩めることはない。ただ静かに、その存在を確かめるように抱きしめ続けていた。
夜は更けていく。
梟の声が、またひとつ。
誰にも知られず、ひとつの誓いだけが――静かに、強く、刻まれていた。




